「少しだけ我慢しろよ。」

事務所を出て、高柳家へと向かう車中で、簡単な打ち合わせを済ませると、征太郎は突然謎の一言とともに、私を抱き寄せた。
突然のことに、やはり体を固くした私にニヤリと意味深な笑みを向けてから、左サイドの髪を軽く掬って、顔を近づけてくる。
次の瞬間、わずかに露出した左の首筋に何かが触れたかと思えば、すぐにピリッと痛みが走る。

「いっ…!」

何が起きたか分からぬまま、苦痛の声を漏らした私に構うことなく、そのまま彼の頭がわずかに移動する。

「あっ、やっ…」

抵抗しようと身をよじる前に、鎖骨付近にもう一度同じ痛みを感じた。

「ちょっと、何するのよ!」

慌てて痛みを感じた箇所を触る。胸元を見れば、赤い花びらのような跡が残されていた。

何、これ。
一体何のつもりなのよ。

征太郎を睨んでみれば、彼は得意げな顔で首筋の跡に触れた。

「何って、キスマークだろ。論より証拠だ。」
「なんで、こんなこと…」
「あえて際どい場所を選んだ。本物らしく見えるようにな。あの親父なら必ず気が付くはずだし、俺が付けたと分かれば十中八九からかってくる。その時に、さっきみたいに真っ赤な顔でもしてろよ。言葉で取り繕うよりも、その反応の方がたぶん何十倍も説得力があるさ。」
「やだ、ちょっと…」

慌てて手鏡を出して確認すれば、確かに、二カ所とも髪と服で隠れるか隠れないかの位置に付けられている。

「おっと、征太郎もなかなかやるね。」
「あら、ちゃんと真依子の扱い方、わかってるじゃない。」

運転している谷崎さんと、ついでに駅まで送ってもらう予定で助手席に乗っている瞳が、やたら感心したような声を上げた。
私は恥ずかしさと腹立たしさの両方で顔を赤くして、征太郎を睨み付ける。
しかし、睨まれた本人は、涼しげな顔で、不本意そうに言葉を吐いた。

「初めてだ、こんなもの女に付けたのは。」

“こんなもの”と言いながら、彼の指先が私の鎖骨に思いの外優しく触れる。

「今まで馬鹿げた行為だと思ってきたが、」

端正な顔には似つかわしくない、不敵な笑みが浮かんていた。

「…意外と悪くないな、」

彼は、鎖骨から首筋へ指をゆっくりと滑らせてから、私の目をしっかりと見つめて言った。

「自分のものに印を付けるのも。」

その言葉には嫌悪感しか湧かないはずなのに、何故か私の胸は大きく音を立てた。

やだ、私、どうしたのよ。
こんな男にときめくなんて、ありえない!

慌てて反論しようと口を開き掛けたが、咄嗟に言葉が出てこなかった。
代わりに征太郎が口を開いた。

「そんなに物欲しそうな顔するなよ。」
「別にしてないわよ!どうなっても、知らないから!!」

私はそれきり、そっぽを向いて、ひたすら外の景色を眺めていた。