ふわり、と墨の良い薫が広がった。

それと同時にぼんやりとしてしまっていた意識が現実へと引き戻される。

視線を前に向けると先生が墨を摩っていた。

慌てて鞄から道具を取り出す。

先生はそんな私に一瞥もくれない。ただただ、淡々と墨を摩る。

私もそれに倣って背筋を伸ばし、墨を用意する。

今日の生徒は私だけ。

そう考えて浮かれてしまっていた気持ちがゆっくりと落ち着いてゆくのが自分でわかる。

先生はきっと私のこの気持ちに迷惑だ、と困ったように笑むだろう。

そんなところが堪らなく好きだから、私は想いを告げない。

墨の薫りに私の儚い想いを乗せるだけ。

「そうだ。明日、僕と一緒に書展へ行きませんか?」

ああ、先生。何故あなたはそうやって私を惑わすのか。

思わず落とした墨はカラン、と小さな音を立てた。