「ま....まってどういうこと。」
社長と呼ばれた女性の部屋から
逃げるように飛び出ると、私は彼に聞いた。
少し考え込んだ彼は顔を上げて
「かわいいじゃん。」
私になっすぐと言葉を小さくぶつけた。
「.....は?」
にこっと、不気味な笑みを浮かべた彼は、
私をまた壁に追いやるように近づいてくる。
「かわいいから。可愛いから。かわいいから。いねこはかわいいから。」
私の事を、
『かわいい』
と連呼する彼の甘い言葉に酔わずにはいられない私は
まんまと壁の方へ後ずさりする。
「....ま、ちょ.....そういうことじゃなくて」
誰もいない殺風景な廊下。
白い床に
白い壁。
ズルズルと
私と彼の体はほぼ密着状態にまで詰め寄って、
「かわいいから、俺のモデルにならない?」
そっと耳元でつぶやいた。
ふわりとまたあの香りに
耳をくすぐらせる彼の息。
「は.....?」
「いや?」
「そうじゃな......くて」
だから、離れて、
「お願い。」
また、切ない声をしないで。
私の背中にそっと手を回した彼に私の体は小さく震えた。
「....いや...です。」
思考が停止して、
目の前がぼんやりと霞んで、
見ている景色はさっきとは変わらないのに視点が定まらない。
「なんで?こんなに可愛いのに?」
困ったような声で、また彼は繰り返す。
「...可愛く...ないしっ、あなたのそばにいるなんて...」
.....息がつまるから。
早く離れてほしい。
お願いだから、私で遊ばないで。
「....どうして?俺はいねこのそばにいたい。だからモデルをしてほしい。
俺のモデルに。」
.......だから、俺のモデルって何
なんで...私に?
背中に回された手は私を軽く抱きしめる形になって
鼓動が高鳴って
心が壊れそうで
「...よくわかりません。」
もう、考えられないんだよ。
頭がついていけないの。
わかってよ.....
やめてよ...。
耳元で、
ほら、
「だから、俺の彼女になってよ。
モデルになって」
がしゃん
何かが壊れた気がした。
音を立てて、粉々になって。
......そうやって、私を惑わせるのを
もういい加減やめて。
「...は?」
鼻がツンとして目にはなぜか水が溜まり始めて
それはゆっくりと
涙袋を伝う。
「...いねこ、かわいい」
涙が、私の頬を濡らす。
だんだんと量は増えていって
粉々になった何かも、水にドロドロに混じって外に出て行く。
なのに、それは、ずっと心に在り続けて
......苦しい。
「.....やめてくだ.....」
ひんやり、
頰に私の体温ではないものがヒヤリと触れる。
彼の細い腕が私の水を拭う。
「....ほっぺあかいよ。かわいい」
ぷにっと、私の頬を軽く詰まる彼。
.......苦しい。
気付いてしまったこの心に。
「.....私を、私を、利用しないでくださいっ!!!」
バシッと彼の腕を払う。
全力で両手で彼の体を押し倒した。
「つっ」
.....ぁ。
痛みに顔を歪ます彼は
狭い廊下で向かいの壁に頭を打ち付けた。
......また、怪我をさせてしまった。
「...ぁ、あなたが悪いんです。」
その場にいても立ってもいられなくて、
左右もわからないまま、真っ白な空間を逃げるように
走り出す。
彼に背を向けたのは何回目だろう。
こうやって泣きながら走ったのは
..........ようやく気がついた
あの時から
あなたを思って泣いたあの時から。
からかう、いとこの君を思って泣いたあの時から
.......私は彼が好き。
彼の全てが
好き。