「いや、ほんまはな、話すべきやったと思う。
でも、そこまでわたしが突っ込んで話すことやろうか、って思った。」

あれ、章子さんらしくないな。
人のこと、ばかみたいにかまう人やったのに。

自分の知っている吉崎先生と、章子さんの語ることが少し違ってきて、
自分の記憶があいまいになったように、直ちゃんには感じられた。

「わたしな、怖かってん。」

普段はぜったいに言わないようなことを、今日の章子さんはたくさん口にする。
混乱はしたけれど、だからといって失望だとか、そういう感情はおこらなかった。
ただ、きちんと聞いてあげようと思った。

だから、なるべく穏やかに聞こえるように、

「何が?」と聞く。

「わたしはな、直人くんが思ってるような立派な人間じゃない。

…わたしは、一度隆司を置いて逃げたことがある。

子どもがいなくなって、悲しくて、頼りにしてたはずの人に責められて、
辛くて、
自分のことだけ考えて隆司を置いて逃げた。

まだ母親が必要な子どもを置いてな。」

章子さんの目にいつもにない暗い光が宿っている。
直ちゃんは、一度ためらってから、章子さんの背中をなでた。
章子さんは今度はいやがらなかったから、少しの間手をゆっくり動かして、

「大丈夫。りゅうだってわかってる。」と言った。

「あの子は賢いから。
でも、ずっと我慢させてたのもほんまのことや。」

章子さんは、そう思っているだけましじゃないか、と思う。
自分の母親は、自分のことをそんな風に考えてくれたことがあるだろうか。

「だからな、あの子が戻ってきたとき、
もう二度と逃げんとこうと思った。
何からもな。」

と言って、それから思い出したように

「まあ、料理からは逃げてるな。がんばってんけど、合格点はもらえんかったみたいや。」と、また少し笑った。