その頃、直ちゃんはりゅうさんからもらった鍵で玄関のドアを開けていた。
チャイムは迷った末、鳴らさなかった。

あんなに反対していたのに、鍵を渡してくれて、地図まで書いてくれた友人には感謝しているし、うれしいと思う。
しかしその言外に、決着をつけてこい、という意図が透けてみえたので、
心は少しも明るくならなかった。

タイル敷きの玄関に立つと、奥から「隆司?」という章子さんの声がした。

「おれ、直人。」と、聞こえるように言ったが、返事がない。

付き合い始めてそれなりに年月がたつが、章子さんの家に来るのは初めてである。
とりあえず、声のするほうへ行くことにした。

靴を脱いで廊下に上がり、玄関のすぐ手前の部屋をやり過ごして奥へ進む。

すりガラスのはめ込まれた木枠のドアを開けると、ソファとテレビが置いてある部屋の中に章子さんが立っている。

「なんで?」

「りゅうに、隆司、くんに鍵借りた。」

「…勝手なことして。」

3階の部屋からはまだ明るい空が見える。

章子さんの表情は逆光のせいでよくわからなかった。
クリーム色のセーターと長めのスカートをはいている姿が、少し痩せたように感じられて胸がつまった。

「座り。お茶入れるわ。コーヒーでいい?」

そう聞いてくれて、ひとまずは追い返されないことにほっとする。

やや緊張気味に、大きな布をかけたソファに座っていると、しばらく台所でごそごそしていた章子さんが、盆の上にカップをふたつ乗せて運んできた。

「ごめん。紅茶でもいいかな。
コーヒー切れてて、多分買い置きあると思うねんけど、隆司がいないとわからへんねん。」

章子さんらしいや、とおかしくなって、
それで緊張がほぐれた。

「うん。なんでもええ。
…顔、見れただけでええ。」

章子さんは黙ったまま、ソファの前のテーブルにカップをふたつ置いて、自分は床に座った。

「久しぶりやな。元気やった?」

元気なわけないのに。
間抜けなことを聞いてしまったが、それが一番気になっていたことだから仕方がない。

「うん。なんとか。直人くんは?仕事、がんばってる?」

「うん。」と、いったん返事をして、

「おれ、章子さんのこと信じてるから。」と言った。