寒くて目が覚めた。強張った首筋が動かすと痛い。
(まだ、生きてる)
 死を覚悟して意識を手放したが、利音は再び目覚めた。肩の上で揺れる髪はまだ湿っているから、あの風呂場でのことからそう時間は経っていないだろう。利音はいま、臙脂のボロ布を着せられていた。そして左足首には幅5cmほどの、金属製の足枷がはめられている。利音の知識から鑑みて、これはまさに奴隷の姿だった。
 そして利音のよく効く耳は微かな息遣いを拾った。はっとして辺りを見回すと、人が十数人。みんながみんな、利音から一定の距離を置いて遠巻きにこちらを見ていた。利音のものと似た白っぽいボロ布を纏って、体を温めるように膝を抱えて座っている。ただ、目に力がない。痩せている者がほとんどで、肌も服も汚れている。
 どうやらここは檻か牢獄か、そういうところのようだ。
 みんなが利音と関わりたくないと思っていることが見て取れた。同じ檻に入れられているのだから、利音と彼らは同じ立場だろうに、明らかに利音は“異質”の扱いだ。
(赤い布は、私だけ……何か意味があるの?)
 みんながまとっているボロ布は汚れているけど白で、利音だけ赤だ。その色にどんな意味合いが込められているのか分からないが、とにかく良い印象ではない。
 冷えた手足を集めるようにして、利音も周りと同じように体育座りをした。膝に額をくっつけて、視線やら考えたくないことやらから逃げる。ほんとはおかしなことがいっぱいあって、なんで、って疑問が膨れ上がってる。だけどその一つを掬い上げたら、後から後から、利音の思い出したくないことも全部暴くまで終わらない。それが分かる。だから、知らないふりをする。
(――思い出したくないこと、って、なに……?)
 ふとそんな思いが湧き上がった時。足音が近付いてきて、錆び付いた鉄の扉がギィギィ言いながら開かれた。
「相変わらずここは陰気くせェ」
 大柄な男がのっそりと入ってきて、ランプの灯りを持ち上げた。しばらく視線を巡らせていたが、それがピタリと、最奥にいた利音の上で留まった。ニヤッと不快な笑みを浮かべ、十数人の奴隷たちを跨ぎながら近付いてくる。
「お前の部屋が整ったから移るぞ。来い」
 ぐいっと二の腕を掴んで持ち上げられた。抵抗しようにも、男の力は有無を言わせず強い。黙って引っ張られるがままについて行った。
 牢屋はどうやら地下か何かにあるようで、蝋燭の心許ない灯りでぼんやりと照らされているだけだ。ジメジメとしていて衛生的にも精神的にもいい環境ではない。地下には大きな牢屋が3つあって、大勢の奴隷たちがいた。利音はその一つから連れられて、一番奥にあった、少し小さな牢に入れられた。
「ほら、特別室だ」
 男は利音の背中をドンと押しやり、牢の鍵を閉めた。
「とくべつ、しつ?」
 利音は、聞き取った男の言葉を正確に繰り返した。すると男は驚いて、鍵をかける手を止めた。
「おいおい、お前〈剥落者〉だろ? 言葉は分かんねぇって言うから引き取ったのに、話が違ェじゃねえか」
 男が早口で喚いたが、それはさすがに分からなかった。利音が怪訝な顔で見てるのが分かったのか、男はふんと鼻を鳴らす。
「なんだよ、真似しただけかい。おい、それ以上喋るんじゃねぇぞ、お前の価値は、何にも分かんねェってとこにあンだからよ」
 ギャハハ、と男は不快な笑い声を上げながら去っていった。その声が地下牢に木霊して、不気味な余韻だけを響かせる。利音は冷たい壁を背もたれに、膝を抱いて縮こまった。
「はくらくしゃ。……あの人も言ってた」
 利音は、言葉が分からないのがこんなにも不安だとは知らなかった。今までは日本語の他に英語が話せれば事足りる環境にいて、新しい言葉を学ぶのは楽しみで。だけど今はただ、自分の身を守るために。知らないことが怖いから、必死に音を聴く。利音の生まれ持った優れた耳が、こんなにも有り難く思えたのは初めてだった。
 暗闇の静寂がまるで襲ってきそうで、利音は歌を口ずさんだ。口をついて出てきたのは、『ふるさと』。利音にはウサギやフナを追ったり、青く清い山河のある故郷はないが、いまはただ、元いたところに帰りたい。高望みはしないから、ただ、ただ――
(お父さん。会いにきたのに、私、間違えちゃったみたい……)
 閉じた瞼から、涙が溢れ出した。