「先生、いつもお世話になっています」
楢崎さんは、いつものように僕の姿を見る前から大きな声で話し始めた。
年齢は聞いたことはないが、おそらく40代半ばくらいだろう。
小柄な身体に大きな重そうな鞄を持ってやってくる。
「こんにちは。どうぞ」
診察待ちの患者さんもいなかったので、楢崎さんを患者さんが座る丸椅子に座ってもらった。
「先生、こちらの患者さんですが、腹部エコーをされている理由はなんでしょうか?」
この臨床研究は、糖尿病の薬剤の効果と、その他に与える影響を調べるものであるので、実施した検査の内容なども報告しておかなくてはいけないらしい。
「これは、検診ですね。特に何もなかったです」
検査をするにも検診と経過観察があり、実施理由も異なるので、聞かれるのだ。
「わかりました。ありがとうございます」
このような調子で、5症例分の質問を受ける。
「先生、再来月から担当が変わることになりましたので、来月、引き継ぎの為に次の担当者も同行させていただきます」
「えっ、そうなんですか?」
急な話だったので、少し驚いた。
「私事ですが、結婚することになりまして・・・」
楢崎さんは、僕から視線を逸らし、恥ずかしそうに言った。
「えっ、そうなんですか?おめでとうございます」
これは、かなり驚いた。
楢崎さん、結婚していなかったんだ。
見た目から言えば、中学生くらいの子どもがいそうだったので、意外だった。
いや、再婚ってこともあるのか?
「結婚退職されるのですか?」
「この歳で結婚退職っていうのも恥ずかしいんですけどね。彼の転勤が決まったので・・・」
そう言う楢崎さんは、とても幸せそうだった。
この結婚に夢を見ている感じは初婚なのかもしれない。
でもそんなことは聞くことはできない。
「新しい土地で大変でしょうが、頑張ってください」
「ありがとうございます」
楢崎さんは、深く頭を下げて「失礼します」と診察室を出て行った。