魔界姫志ーまかいきしー



逃げなきゃ。
ここから早く逃げなきゃ。

そう思うのに足が、身体が言う事を聞いてくれない。

「逃がさないよっ」

ミルが呟くと同時に悪魔のように尖った耳に、漆黒の羽が背中に生える。

人じゃない、悪魔そのものだ…。

爪も長く鋭く伸びてる。
あんなので切られたら終わりだ。

「ここは僕に任せてユイちゃんは逃げるんだ!!」

ロイが少し地面から浮いて私の前に両手を横に広げ 通せんぼするような形で立つ。

いくらロイでも無理だよ、逃げよう。

そう言いたいのに、怯えきった私は声すらも出ない。

カタカタとその場に震えることしかできない。

「ユイちゃん!!早く逃げるんだ!!」

「うるっさいなぁ」

ミルが高速でロイの前まで移動する。

その瞬間、手を振りあげる。

「ッッ…くそ…う、!!」

長く鋭い爪は見事にロイの肩へ命中し、貫通する。
ロイの肩から流れるのは赤い液体。



「ロ、ロイっ!!」





今にも泣き出しそうな声で私はロイに手を伸ばす。

ロイの手を掴んで逃げればいい。
追い付かれるなら、それでも逃げればいい。

逃げて逃げてシキ達を探せばいい。

「…ッ、大丈夫さ。
奴らの狙いはユイちゃん、君だ。
だから早く逃げてシキと合流するんだ!!」

肩を押さえながら呟くロイだったけど、指の隙間からポタポタと血が流れる。

それでも尚、ミルを睨み続ける。
ああ、この子は本気だ、って。

本気で私だけを逃がそうとしてるんだって嫌でも分かった。



「ユイちゃん。君も本当は分かってるはずだよ
"彼"が敵だということに気付いてるはずだ」

そう。
本当は私だって気付いていた。
それでも確信に値する何かが無くて、信じれなかったのに

今になって、確信だと気づいた。

私は何を信じればいい?
自分を信じ、ロイを助ける?
ロイを信じ、私だけ逃げる?


そんなの、決まってる。




私は……。













「…いい子だね、ありがとう」

ロイがそんな事を言っているのも知らずに私は逃げた。
怖くて、自分が弱くて逃げ出したんだ。

ロイを置いて逃げ出した私は木の陰に身を潜める。
逃げたけど、ここなら遠目から二人が見える。

機会があれば助けられるかもしれない。
そんな浅はかな願いを込めて。

ロイだけを置き去りにして本当に逃げるなんて私には出来ない。

木陰からこっそり盗み見するように二人の様子を見る。

ミルは自分より大きな獣の手を操りロイはその攻撃を交わすだけ。

戦いに疎く、第三者の私から見ても分かるほどに圧倒的にミルが有利だった。




ロイ…どうして逃げてばかりなの?

…まさか、ロイはただの妖精に過ぎなくてシキ達のように魔法なんて使えない…?

私を逃がすためだけの口実…?

夢と、同じだ。
私が見た夢と同じだ。

ぼんやりとしか分からなかったけど夢の中でこの光景を見た。

二人の人が戦っている光景を。

どとらかが動かなくなる光景を。

まさか、まさか。
この夢はこの事を現していた…?

こうなる事を私は夢で見た…?

「く…っ…」

先程の傷を庇いながら攻撃を交わすロイだったけれど ついに地面に肩膝をついてしまった。

ロイにとってこの戦いも、長期戦も不利でしかない。
攻撃が出来なければ…ロイに勝ち目なんてない。

「弱者は黙って眠ってなよ。永遠に…邪魔しないでよね!!」

ミルが片手を空へ上げる。
そのまま振り下ろすと同時に無数の黒い光のような矢がロイ目掛けて突き刺さる。

「…う゛っ…」

小さな呻き声を上げてロイは力なく倒れてしまった。

「……っ」

嘘よ、嘘よ…ロイが死ぬなんて、嘘に決まってる…!!




自分の口を押さえて声を出さないようにする私だったけど、ロイが死んだという事実は私を動けなくするのには充分過ぎた。

ーーガサッ

隠れているという事を忘れ木に寄りかかるようにして座り込む私に草の擦れる音が響く。

「うん?そこに誰か居るのかなぁ?」

楽しく歌っているかのような声を出しながら私の方へ近付いてくる一つの足音。

ミルだ…ミルしか居ない。

足音が聞こえるってことは今度は飛んでないんだ…。

冷静な事を考えている割に、ここから動けないでいる私は相当な馬鹿なのかもしれない。

「み〜つっけた♪」

それと同時に私はハッとして顔を上げてしまう。

そこには不気味なほどニヤついているミルが私を見つめていた。

その表情に体は無意識に強ばる。

「君は殺さないよ?
僕たちのボスがそれを望んでいるからね…少し眠ってもらうだけさ♪」

私の目の前で手をかざす。
もう、私には逃げるなんて言葉は脳内から消え去っていた。




ただ、ぼんやりとミルの気持ち悪い獣の手を見つめるしかできなかった。

殺されるかもしれない恐怖と。
ロイが殺されてしまった恐怖。

こんなにも私は弱かったんだ。
自分ひとり守れない、弱虫なんだ。

もっと色々しておけば良かった。
もっとちゃんと言いたい事を言えば良かった。

目を瞑る私だったけど、一向に痛みも何も襲ってこない。

「………?」

不思議に思って目を開くと…。














「…っ、ロイ…!!」






ボロボロの体で私の前に立つロイが居た。





「まだ生きてたんだね…全く、手のかかる虫けらだよ」

冷たく私達を見下ろす。

「ロイ、逃げよう…一緒に逃げよ…?」

やっと事で口から出た言葉は自分が思ったより震えて、小さかった。

「…はっ…平気、だよ…」

私の方を見ていつもと変わらない笑みを浮かべるロイ。

どうしてそんなボロボロになってまで私を助けようとするの。
どうしてそんな、笑っていられるの。

「ダーク ネス リゼメント」

「ろ、い…ロイ…!!」

一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

ミルが何かを呟いた途端に地面から紫のような黒い物体が2匹現れてロイを銜えた。

言うなれば、龍。

ロイの右手と左手に噛み付くようにして空へ舞う2匹の龍達は容赦なくロイを襲っていく。

悶絶するような痛さを味わっているであろうロイからは叫びにも似た声をあげている。

やめて、やめて辞めて…。

「もう…やめてよ…」

涙を流しながらミルを見上げる私に彼は口元に笑を絶やさぬままパチンと指を鳴らす。

その内の1匹の龍がミルの側までやってきて地面に戻っていった。

なんなのよ、一体なんなのよ…。

口から大量の血を吐き出すロイ。
いや、口だけじゃない…至る所から流れ出す。

早く手当しないと本当に死んじゃう。

「彼らはね?血の匂いを嗅ぐとより凶暴になるんだよ」

…まるでサメだ。
そんなに嗅覚がいい動物がサメ以外にいるなんて…ううん。

こいつらは動物なんかじゃない。
魔物なんだ、平気で私達を、人を傷つける魔物だ。





「…っ、ぐは…ユイちゃ…君は、なんとしてでも…生きて、彼らを…」

ーーグシャリ

最後まで聞き取れないうちに魔物はロイを跡形も無く飲み込んだ。

「ロイ…ロイいいいい…!!!!」

私は構わず泣き叫んだ。
声が枯れるほどに、叫んで叫んで。

「美味かったろ?
さあ、もう用は済んだ戻って」

ロイを飲み込んだ魔物は、またも地面に戻っていった。
残されたのは私とミル。

辺りを見てもロイの気配、存在、何もなかった。

本当に…居なくなってしまった。

「そんなに睨まないでよ♪」

まるで何事もなかったように優雅に飛んでいる彼を見ると腹が立つ。

ロイが吐き出した血すらも、跡形も無く消えていて。
最初からロイの存在が無かったような…元々居なかったような。

そんなこと、しないで。

「ロイを返してよ!!」

「君がアイツを信じた。そうでしょ?」

違う。
そんなことない。

「君がアイツを守れなかったのは僕のせいか?」

…違う。

「アイツが僕に負けたのは力が無かったからだ。

アイツがダークネス リゼメントに勝てなかったのは
君を守りたいという意思が弱かったからだ。

アイツが死んだのは君が無力だったからだ!!」

「違う!!黙れ!!私に力があればロイを助けられたかもしれない。

でも、それ以上ロイを馬鹿にしないで!!
アンタが居なきゃロイは死なずに済んだ!!」

私がロイを信じてしまったからだ。
自分を信じ、ロイを助ける方法を選んでおけばよかった。

そうすれば、ロイは死ななかった。

「アイツなんて生きてようが死んでようが同じでしょ」

ブチリと。
私の中で何かが切れる音がした。