ご近所の人も退避しなければ、この町を逃げ出すことは出来ないと言い張るお婆ちゃんに、時正君は「もう一度、町内の人を説得してくる」と、ビラを握りしめ家を飛び出した。

 私はお婆ちゃんに家族と一緒にここから逃げるように促す。

「音々ちゃん……、時正の言うことをどうしてそこまで信じるんね?わしには原爆が広島に落とされるとは到底信じられん」

「確証なんて何もない。でも……時正君が嘘をついているとは思えないの。それにこのビラに書かれていることは嘘ではない気がする。8月6日……広島に大変なことが起きる。それはとても恐ろしい悲惨な出来事……。時正君はここは爆心地だと言ったわ。ここにいると危険なのよ。お婆ちゃん、ここを出よう」

「音々ちゃん……」

 お婆ちゃんは立ち上がり、配給されたばかりの米や食材を時正君のカバンに詰めた。

 そして、おひつに残っていた白米でおにぎりを作り始めた。

「お婆ちゃん……」

「明日広島に大変なことが起きるんなら、食いもんは必要じゃけぇね。一粒たりとも米を粗末にしたらいけん。ぎょうさん米を炊いといてえかった。音々ちゃんも手つどうてくれんね」

「はい」

 私はお婆ちゃんと一緒に沢山のおにぎりを作った。胸に熱いものがこみ上げ、泣きながらおにぎりを作った。

 ――夜9時27分、空襲警報が発令され時正君は家に戻って来た。町内の家を一軒ずつ回り、ここから退避することを必死で訴えたが、誰も相手にはしてくれなかったらしい。

「時正君……」

「だめじゃ、誰も話を聞いてくれん。非国民じゃと罵られ、疫病神じゃと塩を叩きつけられた」

「そう……」

「じゃけど、『明日の朝空襲警報が解除されても、防空壕から出んで欲しい』と伝えてきた。どんだけの人が僕の話を信じてくれたかわからん。紘一や軍士ならもっとうまいこと説明できるのに、僕は口下手じゃけぇうまく話せんかった……」

 自分を責め悔し泣きをする時正君の背中を擦る。

「大丈夫。時正君の声は、きっと……みんなの心に届いてるよ……」

「音々ちゃん……」

 一旦、防空壕に避難し、空襲警報が解除される前に家に戻る。時正君がこの空襲警報では、空爆の心配はないと断言したからだ。

 ――深夜、町内の人がまだ防空壕に避難している頃、家の前でトラックの音がした。

「婆ちゃん、父ちゃんじゃ。父ちゃんが迎えに来たんじゃ」

 時正君は食料の詰まったカバンを肩に掛け、お婆ちゃんを背中におぶった。