直接希和に武力で危害を加えられる事を考え無い訳ではない。
けれど、彼女は武術に長けている。
命の危険を察知しない訳がない。
だから、彼女が感じていないという事は、
今は何の問題も無いという事だろう。
だから、俺はいつも通りに過ごす事にした。
* * *
「担当者を今すぐ呼べ!!」
「はいっ!」
本店のバックヤードで苛立ちを抑えきれずにいた。
創業祭を楽しみに沢山のお客様が足を運んで下さったというのに、
手が足りない、忙しい等を理由に在庫があるのにも関わらず、
補充する事さえせずに担当者は、のんきに休憩(昼食)に出てるという。
呆れて物も言えない。
休憩に行く時間があるなら、商品を出せるだろうが!
新聞の折り込みチラシの目玉商品で、客足を左右すると言っても過言じゃない商品なのに
品切れになったのかと思えば、在庫がバックヤードにあるじゃねぇか。
俺はすぐさま近くにいたパートとアルバイトに指示を出し、
自ら率先して陳列を始めた。
すると、諦めて帰りかけていたお客様が一人また一人と戻り始めた。
「あの、すみません」
「はい」
「この商品はどの辺にありますか?」
「はい、ご案内致します」
ウェブチラシを見せ、商品の場所を尋ねるお客様。
俺はすぐさまお客様を売り場へご案内した。
商品の陳列場所は当然把握している。
売り場のマネージャーがすぐさま自分が案内すると申し出たが、
お客様が尋ねたのは、この俺だ。
俺が御影の御曹司だからとかそんな事は関係ない。
お客様からしたら、店の従業員の一人に過ぎないだろう。
そんな俺が誘導している間、希和は商品補充に専念していた。
その後、売り場をチェックしながら指示を出す。
勿論、休憩から戻って来た担当者には一喝して。
解雇する事は容易い。
だが、それでは人材が育たない。
上に立つ立場の人間として、
売り上げを伸ばす事以上に難関の課題だ。
* * *
無事に創業祭も終え、漸く一息つけるようになった。
両親から結婚の日取りを決めなさいと催促され、
本格的に準備を始める事となった。
希和と話し合い、式と披露宴を別の日にする事にした。
一つ一つ俺らの手で準備をする事に。
両親や執事に任せれば、明日にでも式が挙げられるが、
一生に一度の結婚式だ。
二人で納得のいくものにしたい。
それは俺が御曹司という事を抜きにして、
一人の男として彼女を幸せにしたい。
彼女が望むものならば、どんな事だって叶えてあげたいから。
本当は桜が満開になる頃に式を挙げたかったが、
仕事に夢中になっていたばかりに気付けば、5月に入っていた。
彼女に毎日のように希望を聞いても、彼女は“特にない”の一点張り。
結婚に対して、夢が無い訳じゃないだろうけど。
もしかして、もう少し先にしたいのだろうか?
結婚したいと思っているのは、もしかして、俺だけか?
元々、彼女は自分の事は後回しにする性格だ。
いつでも俺の立場や世間体を気にする。
彼女がどういう結婚をしたいのか、
一番大事な事が何一つ分からない。
何度聞いても“俺に任せる”と言うばかりだが、
だからと言って、言葉通りに勝手に決める訳にもいかない。
正直イラつく事も無い事もないが、
彼女との未来があるのだから、何だって許せてしまう。
俺らは一週間かけて結婚式の日取りを決めた。
一先ず、結婚式だけ先に行う事にした為、
挙式を彼女の誕生日の10日後にした。
―――――6月12日
ヨーロッパでは、幸せになれると言い伝えられている日だ。
6月と言えば、ジューンブライド。
神話を気にする俺ではないが、
彼女の心が幸せになれると思えるのならば、俺はそれを叶えたい。
その後、彼女と何度も話し合い、
挙式はロサンゼルスの教会で挙げる事にした。
創業祭も無事に幕を閉じ、結婚式の決め事も本格的になって来た。
京夜様は何事も完璧を求める性格。
仕事も私生活も、そして、結婚に関しても。
私は彼が隣にいてくれれば、他に何も望んでない。
挙式だって、拘りは無いし。
夢みたいなものも無い。
女性なら憧れみたいなものがあるだろう?って聞かれるけど、
結婚自体出来ると思ってなかったから、
正直ワープし過ぎて脳がついていってない。
そりゃあ、“結婚”はしたいけど、
どういう結婚がしたいのか?と聞かれても困るだけ。
それに、結婚は私だけがするものじゃない。
彼だって当人の訳だから、彼が望むものにしたっていいのに。
毎晩のように彼と話し合い、挙式スタイルは彼が決め、
場所は私が決める事になった。
そんな風にして、一つ一つ話し合って決める事となった。
* * *
5月中旬の日曜日。
朝陽が煌めく清々しい朝を迎えた。
朝食を済ませ、私は部屋の片づけをしていると。
「希和、ちょっといいか?」
「あっ、はい!」
ドア越しに、相変わらず低めで心地いい彼の声が聞こえて来た。
「何かご用ですか?」
慌ててドアを開けると、部屋着から外出着に着替えた京夜様が立っていた。
「ちょっと出てくる」
「はい」
彼は用件だけ伝えると、何やら楽しそうに出掛けて行った。
私は不思議に思いつつも、片付けの続きに戻った。
そして、チェストの中身を衣替えし終わると、
ベッドの上に置いてある携帯が鳴った。
「はい、もしもし?」
ディスプレイには、“京夜様”の文字が。
「今から出れるか?」
「えっ?今からですか?」
「ん」
「15分ほど頂ければ出れますが……」
「そうか。悪いが、俺のベッドの上にボディバッグがあるから、車で持って来てくれ」
「はい、分かりました。どこへ届ければいいのですか?」
「悪いな。じゃあ、今からメールするな」
「はい、お願いします」
10時30分。
京夜様にしては珍しく、忘れ物をしたらしい。
だから、私は急いで外出する準備を施し、彼のバッグを手にして
彼からメールで送られて来た場所へと向かおうとしたのだが……。
あれ?
鍵が無い。
いつもここに置いてあるのに……。
玄関にあるはずのセダン車の鍵が見当たらない。
あるのは、京夜様の愛車の鍵だけ。
待たせる訳にもいかないし……。
仕方ない、これで行くしかないわね。
運転し慣れない高級スポーツカーで街中を走行。
すれ違う人どころか、対向車の運転手まで注目する有り様。
目立ちたい訳じゃなのに、必然と目立ってしまってる。
芸能人でも無いし、直射日光が眩しい訳でもないけど、
サングラスをかけない訳にもいかない状況。
はぁ……、庶民の私には罰ゲームね。
午前11時。
この辺り?
ナビが目的地周辺だと言ってる。
辺りを見回すと、20メートルほど先のストリートオブジェの前に彼がいた。
ゆっくり徐行して彼の傍に停車させると、
彼は目配せしながら助手席に乗り込んだ。
「悪かったな」
「いえ、別に構いませんけど……。この車の鍵しか無かったので……すみません」
「あ、いや、いいんだ。あっちのはメンテに出してるから」
「そうなんですか?知らなかったです」
「ん、急に思いついて、昨夜遅くに取りに来させたから」
「……そうだったんですね」
「それより、出してくれ」
「あっ、はい。どちらへ?」
「とりあえず、直進してくれ」
「はい」
京夜様はシートベルトを締めると、長い脚を組み、含み笑いを浮かべた。
彼の指示に従い着いた先は………。
「あっ、ここ…………知ってます!」
「フッ、…………だろうな」
「へ?」
店の裏手にある駐車場に車を止め、彼と共に店内へと。
入口の扉を開けると、店内だというのに屋外を思わせる日本庭園の造り。
あまりの美しさに見惚れていると、スタッフが姿を現した。
その装いも店内の雰囲気に合わせ、二部式の和服姿で。
京夜様は名前を告げ、スタッフの誘導に従い奥の間へと……。
もしかしなくても、予約してあるらしい。
こんな格式高いお店、恐らく、一見さんお断りのお店だろう。
先日、京夜様が雑誌のインタビューを受けた。
その雑誌に高級飲食店特集が載っていて、
このお店はその特集に掲載されていた。
私の好物の専門店とあって、つい興奮した記憶も新しい。
京夜様の優しさが伝わってくる。
私の言葉を覚えていて下さったなんて……。
私なんて、彼の為に何かした事があるだろうか?
彼なら、行きたいお店だって好きに行けるし、
欲しいものなら何でも手に入る。
私が手を施さなくても、彼は常に満たされている筈だもの。
これといって、何か食べたい物でもあるのかしら?
いつも聞かれるばかりで、彼が本当に食べたい物なんて想像もつかない。
彼の傍にいる資格……まだまだ未熟だわ。
彼の後を追い、突き当りの間に到着した。
部屋に通され間もなくすると、食欲をそそる白い湯気を纏った料理が運ばれて来た。
先付のおぼろ豆腐を始め、口取りの唐墨大根と胡麻豆腐は勿論の事、
椀物の蟹真蒸・湯葉煮……どれも頬が落ちるほどの絶品の味。
「どうだ?言葉が出ないところをみると、口に合ったみたいだな」
「っ……、はい。とても美味しゅうございます」
ついつい目の前のお料理に夢中になっていて、
彼の事をすっかり忘れていた。
私とした事が………。
箸を置けないほど虜になっていたようだ。
その後も造里、炊き合わせ、焼き物、揚げ物、酢の物、皿物……
どれも美味しすぎて、“美味しい”しか声にならない。
そんな私を楽しそうに眺める京夜様。
彼の口にもあったようで、外食では珍しく箸が進んでいる。
最後の水物、抹茶豆腐の黒蜜がけをぺろりと平らげた頃には、
とうに12時を過ぎていた。
「希和が豆腐に目が無かったとはな……」
「フフッ、意外でしたか?」
「ん~、まぁな。武術をしてたから、てっきりガッツリ系が好きとばかり」
「あ、それもあながち間違いではありません。ステーキだとかとんかつも好物ですけど、豆腐は別物です」
海外の試合や合宿生活がある時は、いつもお米を持参する。
炊飯器がなくても、鍋があればご飯は炊ける。
やっぱり日本人は、和食を食べないと集中力に欠けるみたい。
それでもやっぱり、どうしても食べたいと思うのが“豆腐”
今じゃ、真空パックの豆腐が海外でも手に入るけど、
私が学生の頃はまだ貴重な品だったから。
豆腐への執着は人一倍なのかもしれない。
私の意外な一面を見て、彼は満足そうに微笑んでいた。
店を出て、京夜様の運転で近くの公園へと向かった。
清々しい陽気のお陰で、公園には沢山の人が訪れていた。
「乗るか?」
「へ?」
「………あれに」
「…………っ?!」
少し早めに昼食を摂ったお陰で、ちょうどボート乗り場が空いている。
今だ!と言わんばかりに彼は私の手を取り、やけに楽しそうに歩き始めた。
「本当に乗るのですか?」
「あぁ、嫌か?」
「あっ、いえ。………乗ってみたいです」
「もしかして、乗った事がないのか?」
「はい。京夜様はあるのですね」
「いや」
「え?」
「俺もない」
「……………プッ」
自信ありげに手を引くものだから、てっきり経験者かと思えば。
彼も手漕ぎボートには乗った事がないらしい。
私と京夜様は、初めてのボート体験をした。