店の扉を引くと、カランカラン、と音がした。

失礼します、と言いそうになって慌てて口を噤む。



「いらっしゃませ。」



カウンターの中にいる、バーテンダーが微笑んだ。

私はドギマギしながらも、そっとカウンターの席に着く。

ちらりと目を遣ると、斜め前に小さなステージがあった。

ここで、演奏をするんだ―――


そこにはまだ誰もいなくて、奥でピッチを合わせたりしているんだろうな、と思う。

高梨さんはどんな人なんだろう、と考えると、胸がドキドキして止まらなくなる。



「本日はこの後19:00からライブになっていますが、チケットはお持ちですか?」


「あ、はい!」


「拝見します。」



バーテンダーが、チケットの端を破いて渡してくれる。



「お飲み物は、何になさいますか?」


「あっ、えと……。」



メニューに目を走らせるも、聞き覚えのないものばかり。

かといって、お水を、なんて言うわけにはいかないだろう。



「か、カシスオレンジで。」


「はい。承りました。」



せめて、名前は聞いたことのあるカクテルにしてみる。

強いお酒だったらどうしよう、と少し怖くなる。

でも、バーテンダーがにこりと笑うので、私の緊張もいくぶん和らいだ。



「どうぞ。」



綺麗なオレンジ色のカクテル。

上と下で二層になっている。

私は、物珍しげにその綺麗なお酒を見つめてしまう。


その時、舞台に誰かが上がる気配がした。

私は、ゆっくりと舞台に目を向ける。

鼓動が速くなって、息苦しいくらいだ。


楽器が運ばれる。

ドラムに、キーボード。

譜面台。


そして、一番最後に登場したのは。


あ―――


キラキラと輝く楽器。

サックスだ。

舞台に当たったライトで、その楽器は一層輝きを強める。

彼は、動画の中の印象と変わらない、華奢な男性だった。



「みなさん。今夜はありがとうございます。アマチュアのジャズバンド、『heaven』です。」



高梨さんが語りだすと、ジャズバーの店内はしん、と静まり返った。

不思議な声だった。

まるで、真冬の澄み渡った星空みたいな声。

快活さの中に、静けさが満ちたような声―――




―――『heaven』


それが、彼のバンドの名前だった。

ヘブン。

天国とか、楽園という意味。

どうしてそんな名前を付けたのか。

それは、結局彼の口からは語られなかった。

でも、私は思うんだ。

彼は、無意識のうちに自分の運命に、気付いていたのではないかと。




「リーダーで、サックスとクラリネットを担当しています、高梨春次郎です。」



そう彼が告げると、大きな拍手が沸き起こった。

店内には、気付いたらもうたくさんのお客さんがいる。

その人たちは、皆、高梨さんのサックスが聴きたくて来ているんだって、何となくわかった。

その証拠に、至る所から『春次郎』という名前が聞こえてくる。



「ドラムの吉井省吾(よしい しょうご)です。」


「キーボードの桜井円花(さくらい まどか)です。」



女性がいることに、チクリ、と胸が痛んだ。

高梨さんと一緒に、ライブができるなんて羨ましい。

そんなこと、思っても仕方がないのに。

高梨さんの大事な仲間なのに。



「最初の曲は、『オー・シャンゼリゼ』です。僕たちが編曲しました。では、聴いてください。」



高梨さんがそう言って、一曲目の曲が始まった。

この曲なら、私も知ってる―――


ああ、やっぱり。

私は、高梨さんのサックスの音色に、一瞬にして引き込まれる。

彼の奏でる甘美な音色が、鼓膜を直接震わせている。

さっきまで考えていた小さなことなんて、全部どうでもよくなる。


薄暗い店内の天井には、満天の星空のように白い光がちりばめられていた。

ああ、だから『starlit night』なんだな、と心のどこかで納得する。


そして確かに、彼らの奏でる音楽は、『heaven』以外の何ものでもないのだった。