次の日、私は大学の授業が終わった後に、春次郎さんの病院に向かった。


絶対に、泣いちゃいけない。

絶対に、ひるまない。

絶対に、怒ったりしない。


握り拳をつくって、私は深呼吸する。

これは、私の闘い。

春次郎さんも、必死に何かと闘ってる。

だから、私も闘うんだ。



「春次郎さんっ!」



明るい声を作って、ドアを開ける。



「あれっ?」



ベッドの上には、誰もいなかった。

ただ、しわのついたベッドがあるのみ。


ベッドに近付いて、そっと触れる。

まだ、春次郎さんが寝ていた温もりが、シーツに残っている。


ふいに、涙が溢れそうになって。

私は、上を向いてなんとかこらえた。


彼が、こうして急に、いなくなってしまったら。

そんな日が、そう遠くない未来に来るのだとしたら―――

その時、私は、どうするだろう。

その時までに、私はどんな時間を過ごすだろう……。


ドアが開いて、看護師さんに付き添われた彼が、戻ってきた。



「あら、面会の方がいらしてたのね。検査、もう終わりましたから大丈夫ですよ。」


「……はい。ありがとうございます。」



春次郎さんは、私の方は見ないで、ベッドに横になる。



「春次郎さん、……今日ね、面白いことを勉強したの。」



彼の布団を、肩まで引き上げて。

私は、語りかけるように言った。



「大学でね、心理学の授業を受けてて、」


「……うるさい。」


「それでね、」


「帰れ。もう来るなって言っただろ。」


「やる気って、方程式なんだって。動機と、自分に対する期待、それから将来に対するビジョン。この3つを掛け合わせるとね、やる気になるんだって。掛け算だから、どこかひとつがゼロだと、全体もゼロになっちゃうんだって。」



何でもよかった。

どんな話しでもよかったんだ。

春次郎さんが、聞いてなくても、それでもいい。

私が、ここにいるってこと、彼に分かってほしい。

彼に関わりたいと思っていることを、知ってほしいから。



「ひとつひとつの要素を、数値化するの。それでね、一番低かったところから、改善していくとね、やる気が出るんだって。……やってみようと思って、私。」


「なあ、すみれ。」


「なに?春次郎さ、」


「何で僕なの?」



彼は、いつの間にか。

真っ直ぐに私を見ていた。



「その心理学の先生に聞いてくれよ。何で病気は、僕を選んだのかって。」


「春次郎さん……、」


「僕には、やりたいことが色々あるんだよ。やる気が出ないなんて、贅沢だよ。僕は、やりたいことを突き詰めるのが好きなんだ。まだまだ、やりたいことも、知りたいことも、行ってみたいところも、たくさんあるんだよ。……何で僕なんだ?何で……。」



私の提供した話題は、また失敗だったらしい。

だけど、きっとどんなことを語りかけたところで、春次郎さんはきっと同じことを尋ねるだろう。

何故、病気が自分を選んだのか。

それだけを尋ねるのだろう。

私だって、そう思う。

誰よりもかっこよくて、でもその裏では、誰よりも努力をしていて。

たくさんの世界を持っている、春次郎さん。

そんな春次郎さんを、わざわざ選ばなくたっていいじゃない。

私みたいに、大した志もなく生きている人間なんて、いくらでもいるのに―――



「帰れ。帰れ、帰れっ!!」


「うん。じゃあ、今日は帰ります。」


「お願いだ、もう来ないでくれ。」


「断ります。」



無理矢理に笑顔を浮かべて、そう言い切った。

彼は、そんな私を、一瞬だけ。

春次郎さんの顔で、見た。


私は、それだけで十分だった。

彼の中の、本当の彼は。

今、眠っているだけなんだと。

きっと、いつか目を覚まして。

私のことを見てくれる日が来ると。


そう思うことができたから。