インターフォンを鳴らす。

ドアの向こうから、恰幅のいいおじさんが現れた。



「はい、なんでしょう。」


「あの、203号室って……」


「ああ、今は空きですよ。入ります?」


「あ、そうじゃなくて、……そこに住んでた人、どうしたか分かります?」


「……そんなこと訊かれても、守秘義務があるから答えられないよ。」


「お願いします!」



頭を下げても、男はしばらく黙ったままだった。



「一か月半くらい前だな。彼は身の回りのものをすべて処分して、鞄一つで出て行ったよ。」


「え……、」


「それだけだ。行先は俺も知らない。ただ……、何だか、切羽詰まった顔をしてたな。」



春次郎さんの表情が目に浮かんで、私は泣きそうになった。

だけど、必死に唇を噛んで堪える。



「お嬢さん、あんたが彼と、どういう関係かは知らないけど。あいつはやめたほうがいいぞ。」


「え?」


「俺、身を以て知ってんだ。俺の兄は、若い頃に死んだからな。……あの部屋の彼は、死に向かう顔をしてた。嘘じゃねえよ。」


「……。」


「そんな顔してるもんだからさ、俺、部屋のクリーニング代を出せって言えなかったんだ。……まあ、元々片付いてるし、対して金もかからないんだけどな。」



大家さんの言葉が、重く心にのしかかってくる。

自分の命である、サックスを私に託した彼。

彼の頬を伝う一筋の涙。

病気のことを知らないはずの大家さんですら、感じる予感のようなもの―――



「すまないな。行先知らなくて。」


「……いいえ。……ありがとうございました。」



大家さんの家を後にすると、辺りはもう暗くなり始めていた。

私は、何の手がかりも得られないまま、いつものジャズ・バーを目指した。