トールサイズのホットコーヒーを、春次郎さんは買ってくれた。

一口飲むと、甘い甘い味が口の中に広がる。

ずっと、何も口にしないで待っていたから、その甘さが心地よかった。


二人で、店内の椅子に腰掛けた、束の間の時間。

最初は黙って、それぞれに窓の外を見つめていた。

春次郎さんが隣にいることの、安心感。

もうその手を、離したくないと思う気持ち。

だけど、だけど―――



「すみれ、」


「……うん。」



聴きたくないよ。

春次郎さんの言葉なのに、聴きたくないよ―――




「これ、貰ってほしい。」




そう言って、彼が足元の大きな箱を、私に差し出した。




「えっ?」




それは―――



知ってる。

その箱の中に、何が入っているのか。



あの草原で、春次郎さんより先に目覚めた私が。

そっと、指でなぞっていたあのケース。

年季の入った、そのこげ茶色の、長方形のケース……。


そう、その中には、アルトサックスが入っているのだ。

春次郎さんが、自分の体の一部のように操る、アルトサックスが。




「吹きたいって、言ってただろ?」



「春次郎さん、」



「もう、要らないから―――」




そんなこと言ったって。

受け取れるはずないよ。

そんなに大事なもの、受け取れるはずないよ!


前に、手紙の中で春次郎さんは言ってた。

―――サックスは僕の宝だし、僕の命そのもの。

って。


春次郎さんがサックスを手放したら、彼の命はどうなるの?

もう要らないって、どういうことなの……。



「ごめん、もう行かなきゃ。」


「春次郎さん、」


「見送ってやれなくて、ごめん。」


「春次郎さん!」


「すみれに会えてよかった。……楽しかったよ。」



彼は、楽器を私の足元に残したまま、席を立った。

その後ろ姿が、店の外に消えていく。


私は、その時やっと我に返った。

このままじゃ、だめだ。

これで終わりにしちゃ、だめだ!



「春次郎さん!!!!」



店から走って出たら、雪道に滑って思い切り転んだ。

でも、私は楽器の下敷きになるようにして、それを守った。

そして、少し振り返った春次郎さんに向かって、雪をはらいもせずに駆け寄った。



「春次郎さん、わかりました。じゃあ私、この楽器、預かりますから!!!」



切ない顔の春次郎さんが、じっと私を見つめる。



「いつかまた、この楽器が春次郎さんのものになるまで、預かりますから!だから、早く、……」



涙で、声が詰まる。

だけど、どうしても、言いたくて。



「……帰ってきて。」



春次郎さんは、唇を噛んだ。

そして、その目から、するっと一筋の涙を流して。


小さく、手を振った。


私の言葉に、肯定も否定もしないまま。


私は、それ以上彼を追いかけることはできなくて。

ただ、その場にしゃがんで、泣いた。

彼の悲しみを思って、泣いた―――



その年一番の寒さが、街を包んでいた。