「そうだ、寒いよね。大丈夫?」



思い出したように春次郎さんが言う。

私も、彼の話に夢中になっていて、寒さなんて忘れていた。


彼が、私の肩に自分の上着を掛けてくれる。



「え、大丈夫ですよ!」


「いいの。僕は寒くないし、これから楽器を吹くからもっと温かくなる。」



そう言って、彼はケースからサックスを取り出した。

夜の暗闇でも、月の光に照らされて、サックスがキラキラと眩しく輝く。



「いつもは誰も聞いていないけど、今日は小さな観客がいる。」


「ふふっ。」


「まさか、ここに誰かを連れてくることになるなんて思わなかった。」


「どうして連れてきてくれたんですか?」


「さあ?どうしてだろうね。」



とぼけるように春次郎さんは言って。



「でも僕は、期待していたんだよ。ライブ後に、宮迫すみれさんが僕に話しかけてきてくれることを。……それなのに、君は来なかった。」


「ごめんなさい!なんか、酔っちゃって。」


「カシオレなんか頼むから。」



春次郎さんは、可笑しそうに笑う。



「僕は、待っていたんだよ。君がすみれじゃなかった場合、言い訳に困るから、起こすことはできなくて。」


「待っててくれたんですか?」


「言っておくけど、僕も君と同じ大学生だからね。深夜まで、用もなくバーで時間をつぶすほど、廃れた日々は送ってない。」


「ふふっ、……そっか。」



私は、その時少しだけ、春次郎さんを近くに感じたんだ。

何もかも完璧な彼でも、人違いをすることへの不安があって。

それで、ずっと待っていてくれたなんて。



それから、ずっと。

彼はサックスを吹いていた。

私の知らない曲ばかりだったけれど、どれも心に響くものばかりだった。


胸が苦しくなるくらい、切ない音色。

人間の声に一番近いと言われている楽器、サックス。

だからその音色が、春次郎さんの声としてこの草原に響き渡る。

くっきりとしたその音色が、天まで届いているような気がした。



私と彼の人生は、これから先、もう交わることはないかもしれない。

こんなふうに、ここに連れてきてくれたのは、春次郎さんのほんの出来心なのかもしれない。


だけど、それでも。


私はこの夜のことを、一生忘れられないだろう。


こんなに素敵な人と、二人きりで。

満天の星空を見上げていたこと。

星座の話や、神話を語ってくれたこと。

胸が塞がるような、サックスの音色―――


春次郎さんはずるい。



そして、空が白み始めた頃。

眠くなった私たちは、草の上に寝転んだ。

そして、春次郎さんの上着を半分ずつ掛けながら、静かに眠ったんだ―――


まるで、一夜限りの夢だったかのように。

跡形もなく、星々が消えてしまうまで―――