高梨さんと、すごい距離を歩いた。
辿り着いたのは、真夜中の暗い林。
私たちは、まるでずっと前から知り合いだったみたいに、自然に一緒にいた。
高梨さんは、重そうなサックスのケースを持ち歩いていて。
私は、一泊するだけの小さな荷物を両手に抱えて。
「ここ、たまに一人で来るんだ。」
「ここに?」
「もう少し抜けると、広場のようになっているところがあってね。そこで、夜空を見ながらサックスを吹くんだよ。」
「素敵。」
「そう?誰も聞いていない。自分のためだけに吹くんだよ。」
「それでも、素敵です。」
冷たい夜の風に、酔いが覚めていく。
でも、長い距離を歩いたせいか、手足はぽかぽかと温かかった。
「もうすぐだよ。」
木立の間を抜けると、開けた場所があった。
木が一本もなくて、どこまでも青い草原が広がっている。
そして、空を見上げると。
思わずため息が出るような、美しい星空が広がっていて―――
「starlit night……」
「これが本物の星空。あれは偽物だよ。」
それはまるで、あそこにいる春次郎さんが、偽物であるかのような口ぶりで。
ここにいる彼は、きっと。
本当の彼。
誰も聞いていないところで、自分だけのためにサックスを吹く、孤独な彼がここにいる―――
春次郎さんは、広場の真ん中へと私を連れていった。
そして、その空を見上げるように、草の上に寝転んだ。
私も真似して寝転んでみる。
すごい。
視界に、星空以外の何もなくなる。
「秋の星空はこれでも地味な方なんだよ。明るい星が少ないからね。」
「春次郎さんは、星、詳しいんですか?」
「僕は凝り性だから、楽器にしろ星にしろ、好きになったら突き詰めないと気が済まないんだ。」
彼は、それからずっと、星の話をしてくれた。
「この中で、一等星は“みなみのうお座”のフォーマルハウト、ただ一つだけ。あれだよ。」
「あれ?」
「そう。“秋の夜空の一つ星”って呼ばれているんだって。」
「フォーマルハウトって、どういう意味ですか?」
「フォーマルハウトはアラビア語で、“魚の口”という意味。「みなみのうお座」の魚の口のあたりにあるからね。」
「“みなみのうお座”って、うお座とは違うんですか?」
「違うよ。じゃあ、うお座を探してみようか。」
質問すると、必ず答えが返ってくる。
こんな人に、会ったのは初めてだった。
私は今まで何となく生きてきて、憧れることはあっても、自分自身がその世界に飛び込む気にはなれなくて。
でも春次郎さんは、一人で色んな世界を持っている。
それが、私にとって何より魅力的だった。
「あそこ。四つの星が、平行四辺形みたいな感じで並んでるの分かる?」
「あれ?」
「そう。あれが、“秋の四辺形”。」
「夏の大三角形なら聞いたことあるけど、そんなのもあるんですね。」
「そうだね。あんまり有名じゃないけど。」
春次郎さんは、秋の四辺形を指差したまま言う。
「うお座には二匹の魚がいて、しっぽがひもで結ばれているんだ。秋の四辺形の右側と左側に二匹棲んでる。右側に見えるのが“北のうお”、左側に見えるのが“西のうお”。」
「しっぽが結ばれてる……。」
「そう。この二匹は親子の神様なんだよ。女神アフロディーテとその息子エロス。アフロディーテとは、美の女神ヴィーナスのことで、息子のエロスは愛の神、キューピッド。」
春次郎さんの口から、すらすらとそんな言葉が流れ出る。
私は、この星空にぴったりの静かな彼の声を、いつまでも聴いていたくて。
「もしかして、神話も語れたりするんですか?」
「神話もある程度は知ってるよ。聞きたい?退屈だと思うよ?」
「聴きたいです。」
「じゃあ……、うお座の神話を話してあげよう。」
「お願いします!」
「ナイル川のほとりで神々が大宴会を催したときのこと……」
彼は、空を見つめながら淡々と語った。
「宴も最高潮に達した時、突如として怪物ティホンが宴会場に現れた。
神々は散り散りになって逃げたけれど、この時アフロディーテとエロスは魚に変身して逃げたんだ。
二人は手を繋いで一緒に逃げたんだけど、ナイル川に飛び込み、魚に変身すると当然手をつなぐことができない。
そこで、お互い離れないように紐で体を結び合ったというわけ。
だから、美と愛の神はともに別れ別れになることはなく、いつまでも一緒にいるんだ。」
彼の神話を語る声に、聴きほれてしまった。
二人で一緒に逃げた―――
今の私たちみたいに?
そんなことを思って、少しロマンチックな気分になったりして。
「美と愛の神が、ずっと一緒にいるって、なんか深いと思わない?」
「え?」
「愛をもつ人は、美しいってことになるから。」
「愛をもつ人は、美しい―――」
「裏を返せば、美しい人は愛を持っている、ってことだよね。」
「何かそれ、美しい人の一人勝ちって感じ。」
「くくっ、そういうつもりで言ったんじゃないよ。」
春次郎さんは笑って、透き通る眼差しで私を見つめた。
「心が綺麗な人は、美しい。……その源となっているのは、愛なんだ。」
「愛……。」
「愛することで、きっと人の心は綺麗になるんだ。そして、その綺麗な心はその人の容姿、言動、行動、すべてに現れる。それが、美しい人をつくるんだと思う。」
そう語る春次郎さんは、誰よりも美しい人だった。
儚くて、消えてしまいそうに感じるほどに。
平安時代の物語によくあるみたいに。
「神に魅入られて」しまいそうな春次郎さん。
神様が、あまりにも素敵過ぎる彼を、現世から連れ去ってしまうような―――
私も、今ここに精神的な紐があったなら。
アフロディーテとエロスのように、二人の体を縛りつけて。
彼がどこにも行かないようにしてしまいたい。
そんなことを思って、私は綺麗過ぎる夜空を見つめていた。
辿り着いたのは、真夜中の暗い林。
私たちは、まるでずっと前から知り合いだったみたいに、自然に一緒にいた。
高梨さんは、重そうなサックスのケースを持ち歩いていて。
私は、一泊するだけの小さな荷物を両手に抱えて。
「ここ、たまに一人で来るんだ。」
「ここに?」
「もう少し抜けると、広場のようになっているところがあってね。そこで、夜空を見ながらサックスを吹くんだよ。」
「素敵。」
「そう?誰も聞いていない。自分のためだけに吹くんだよ。」
「それでも、素敵です。」
冷たい夜の風に、酔いが覚めていく。
でも、長い距離を歩いたせいか、手足はぽかぽかと温かかった。
「もうすぐだよ。」
木立の間を抜けると、開けた場所があった。
木が一本もなくて、どこまでも青い草原が広がっている。
そして、空を見上げると。
思わずため息が出るような、美しい星空が広がっていて―――
「starlit night……」
「これが本物の星空。あれは偽物だよ。」
それはまるで、あそこにいる春次郎さんが、偽物であるかのような口ぶりで。
ここにいる彼は、きっと。
本当の彼。
誰も聞いていないところで、自分だけのためにサックスを吹く、孤独な彼がここにいる―――
春次郎さんは、広場の真ん中へと私を連れていった。
そして、その空を見上げるように、草の上に寝転んだ。
私も真似して寝転んでみる。
すごい。
視界に、星空以外の何もなくなる。
「秋の星空はこれでも地味な方なんだよ。明るい星が少ないからね。」
「春次郎さんは、星、詳しいんですか?」
「僕は凝り性だから、楽器にしろ星にしろ、好きになったら突き詰めないと気が済まないんだ。」
彼は、それからずっと、星の話をしてくれた。
「この中で、一等星は“みなみのうお座”のフォーマルハウト、ただ一つだけ。あれだよ。」
「あれ?」
「そう。“秋の夜空の一つ星”って呼ばれているんだって。」
「フォーマルハウトって、どういう意味ですか?」
「フォーマルハウトはアラビア語で、“魚の口”という意味。「みなみのうお座」の魚の口のあたりにあるからね。」
「“みなみのうお座”って、うお座とは違うんですか?」
「違うよ。じゃあ、うお座を探してみようか。」
質問すると、必ず答えが返ってくる。
こんな人に、会ったのは初めてだった。
私は今まで何となく生きてきて、憧れることはあっても、自分自身がその世界に飛び込む気にはなれなくて。
でも春次郎さんは、一人で色んな世界を持っている。
それが、私にとって何より魅力的だった。
「あそこ。四つの星が、平行四辺形みたいな感じで並んでるの分かる?」
「あれ?」
「そう。あれが、“秋の四辺形”。」
「夏の大三角形なら聞いたことあるけど、そんなのもあるんですね。」
「そうだね。あんまり有名じゃないけど。」
春次郎さんは、秋の四辺形を指差したまま言う。
「うお座には二匹の魚がいて、しっぽがひもで結ばれているんだ。秋の四辺形の右側と左側に二匹棲んでる。右側に見えるのが“北のうお”、左側に見えるのが“西のうお”。」
「しっぽが結ばれてる……。」
「そう。この二匹は親子の神様なんだよ。女神アフロディーテとその息子エロス。アフロディーテとは、美の女神ヴィーナスのことで、息子のエロスは愛の神、キューピッド。」
春次郎さんの口から、すらすらとそんな言葉が流れ出る。
私は、この星空にぴったりの静かな彼の声を、いつまでも聴いていたくて。
「もしかして、神話も語れたりするんですか?」
「神話もある程度は知ってるよ。聞きたい?退屈だと思うよ?」
「聴きたいです。」
「じゃあ……、うお座の神話を話してあげよう。」
「お願いします!」
「ナイル川のほとりで神々が大宴会を催したときのこと……」
彼は、空を見つめながら淡々と語った。
「宴も最高潮に達した時、突如として怪物ティホンが宴会場に現れた。
神々は散り散りになって逃げたけれど、この時アフロディーテとエロスは魚に変身して逃げたんだ。
二人は手を繋いで一緒に逃げたんだけど、ナイル川に飛び込み、魚に変身すると当然手をつなぐことができない。
そこで、お互い離れないように紐で体を結び合ったというわけ。
だから、美と愛の神はともに別れ別れになることはなく、いつまでも一緒にいるんだ。」
彼の神話を語る声に、聴きほれてしまった。
二人で一緒に逃げた―――
今の私たちみたいに?
そんなことを思って、少しロマンチックな気分になったりして。
「美と愛の神が、ずっと一緒にいるって、なんか深いと思わない?」
「え?」
「愛をもつ人は、美しいってことになるから。」
「愛をもつ人は、美しい―――」
「裏を返せば、美しい人は愛を持っている、ってことだよね。」
「何かそれ、美しい人の一人勝ちって感じ。」
「くくっ、そういうつもりで言ったんじゃないよ。」
春次郎さんは笑って、透き通る眼差しで私を見つめた。
「心が綺麗な人は、美しい。……その源となっているのは、愛なんだ。」
「愛……。」
「愛することで、きっと人の心は綺麗になるんだ。そして、その綺麗な心はその人の容姿、言動、行動、すべてに現れる。それが、美しい人をつくるんだと思う。」
そう語る春次郎さんは、誰よりも美しい人だった。
儚くて、消えてしまいそうに感じるほどに。
平安時代の物語によくあるみたいに。
「神に魅入られて」しまいそうな春次郎さん。
神様が、あまりにも素敵過ぎる彼を、現世から連れ去ってしまうような―――
私も、今ここに精神的な紐があったなら。
アフロディーテとエロスのように、二人の体を縛りつけて。
彼がどこにも行かないようにしてしまいたい。
そんなことを思って、私は綺麗過ぎる夜空を見つめていた。