『私は同じ悲しみと苦しみを抱いている妻に全てを押し付けて現実から目を背けてしまったのです』


『え?』


『私はハルミと距離を置いた事に安心すらしていたのです』


男はそう言って眉間に深いしわを寄せてテーブルの上に置いていた自分の手を強く握りしめて、その握り拳を眺めた。


男は拳を解く事なくじっと眺め続けていた。

僕は男に掛ける言葉も見つからず男の拳を眺めた。

雨は相変わらず優しく静かに降り注ぎ、闇の中に無数の光の線を作りながら地面を叩いていた。

僕は凍結した思考を揺り動かし夏恵の事を思った。

夏恵の息遣いを思い。

夏恵の白い肌を思い。

夏恵の目を思い。

夏恵の発した一言一言を思い出した。

しかし記憶を引き出す事は叶わず、ただ抽象的な夏恵がハルミと重なり僕を混乱させるだけだった。