小国とはいえ、端まで散策するのに一日では到底足らない王宮。隅々まで技巧を尽くした細工。宮中では一介の侍女であっても、一歩外に出れば憧れの的だ。
 宮中女官を務める小芳(シャオファン)は、絞った布巾で拭いたところを乾拭きしながら、その窓の桟が少しでも王太子殿下の目を楽しませるよう思いを込めた。しばらくの間誰にも使われなかったこの部屋は、王太子の私室の中でも執務室から遠く、心身ともに安らかに休息をとりたいときにだけ使われているそうだ。
この春から王太子の私室周辺の掃除に携われるようになったばかりの小芳は、部屋の中できびきびと動く先輩たちに負けないように素早く掃除しながら、昨日のことを思い出す。
今日はこの部屋を使いたいとの急なお達しを受けて、女官たちがあわただしく準備を進める。蝋燭を灯して控えめに香を焚き、水や果物類、酒を揃える。
準備をようやく整えた頃、扉をこつこつと叩く音がした。予定よりも早い到着に、女官の誰もが―副女官長ですら―びくりと肩を震わせた。最年長の彼女がさっと一歩踏み出し、扉に手をかける。女官たちはその隣に整列し、頭を垂れた。
 小芳は目を閉じて、王太子殿下の姿を頭に思い浮かべていた。軽い衣擦れの音、床を踏む音が聞こえる。おや、と思った。平時のそれより音がずっと軽い。どこか戸惑うような気配すらしている。好奇心に負けて、うっすらと目を開いた。王太子が心を休めるためだけに使われるこの部屋に訪れることができる人は、その当人しかいないはずだ。床を見つめたまま、耳をそばだてる。女官長に知られては叱責されることだろうが、知られることもないだろう。
 やや間があって、足音は小芳の前を通り過ぎた。小さな足だ。刺繍を施した布でできた繊細で丈夫なつくりの靴が、小さくてほっそりした足を包んでいた。その足は小芳の前を少し通り過ぎたところで止まり、こちらを振り向いた。頭上から、鈴を鳴らしたような軽やかな少女の声がした。

「あの、今夜はここで待つようにと言われたのですけれど…。」

 凛としていて、かつ幼さを残していて、しかしどこか意志の強さを感じさせる声。小芳は思わずはっとして顔を上げそうになったが、副女官長の声に遮られた。

「準備は整っております。王太子殿下は間もなくいらっしゃるかと存じますが、ご用がありましたら何なりとお申し付け下さい。わたくしどもは控えの間に控えております」

 やや戸惑ったような間があり、お付きの女官らしい女性が、その小さい足のすぐそばから一歩進み出た。彼女のものであろう低い声が言う。

「果実酒を用意していただけないでしょうか。こちらは、蒸留酒は好まれないのですが、殿下は盃を交わすことを望まれているでしょうから」

 かしこまりました、との副女官長の声に続いて、女官たちが去る気配と足音がする。小芳は、そのやんごとなき女性のものであろう足から眼を逸らして頭を下げたまま両手を合わせ、背を向けないよう扉まで後退した。扉が閉められて、副女官長の「果実酒はわたくしが用意しますから」との言葉を受け、女官たちは皆もとの仕事場に戻ることとなった。王族の私室が並ぶ廊下をしずしずと通り抜け、衛士たちも見当たらなくなり、官吏たちの執務室にさしかかろうとしたとき、一人が抑えた声で絞り出すように叫び出した。

「あれが噂の寵姫なのね!」

 その声に皆一様に驚いて、一瞬足を止めたが、ほんのわずかな間の後に興奮気味に騒ぎ出す。

「やっぱり、あの方が!」
「お姿は見えなかったけど、可愛らしい声だったわね!」
「あの部屋に呼ばれるだなんて、本当に寵愛をお受けなんだわ」
「新年の儀のときにいらっしゃった方よね?ああ、初めてお目にかかったわ!」

 廊下の脇に寄って、抑えた声ながら興奮を抑えられない様子の同僚たちを見て、小芳は今更ながら興奮が湧き上がってくるのを感じた。
 噂には聞いていた、あの方が!
 ある日、数名の供を連れて外に出ていた王太子が帰還したとき、その傍には一人の少女がいた。彼女は女官たちにすら名を知らされず、王宮の奥まったところ、王太子の私室ではないどこかに隠されてしまい、小芳ですらその存在をほとんど知らなかった。噂になったことは何度かあったが、そのような気配を感じたことなど無かったし、女官を務める誰もがその存在を噂でしか知らなかった。女官長やその周辺の人間は知っていたかもしれないが、彼女らは噂話に混ざることは決してない。
 しかしそんな中、新年の宴の際、王太子の傍らには一人の女性がいた。顔を覆う衣装だったため、少女であるか女性であるかはよくわからなかったが、華奢な体に薄紅色の布を何枚も重ねた服はまるで天女のようだと、遠目から見ても胸がときめくようだった。そして誰もが、その瞬間に噂は真実であったことを確信した。彼女の服がこの国のものと似通っていて、しかしどこか違うことも、それが北方のものであることも皆一様に気づいていたが、それが一体どの国のものであるかは誰も知らなかった。遠くの国で姫が着るにふさわしい服など、女官や宦官、従者や衛士たちは誰も目にしたことがなかったのだ。官僚たちは知っているのかもしれないが、小芳にはそのようなことを伺う機会もなく、また、官僚の末席を汚す未である父は、そこまで知ることのできる立場ではないだろうし、知っていたとしても何も語ることができないに違いなかった。
 そんな噂の渦中にあるまさにその人が、ほんの一歩先にいたのだ。皆が興奮するのも無理はなかった。
 どんな容貌なのか、これからあの部屋で何が起こるのか、想像に花を開かせて語っていると、廊下の向こうから幾重にも重なる足音が聞こえてきた。
 女官たちははっと顔を上げ、慌てて廊下の壁に背を付けるようにしてその場にしゃがみこみ、頭を下げて手を合わせる。
 官吏たちの足音に違いない。でなければ、陛下か王太子殿下だ。公務を終えて、私室に戻ろうとしているのだろう。
 小芳はできるだけ小さくなって、足音が過ぎるのを待つ。
 聞くつもりではなくても聞こえてきたその凛とした声に、隣の女官が小芳と同時にわずかばかり反応したことが伝わる。

「すまないが、指示した通りに進めてくれ。今日は早く休みたい」

 噛みしめるように、壮年の声が応える。

「殿下、何卒お休みください。戻られてから休まれていないではありませんか」
「そのようなことはない。疲れを忘れさせてくれる者がいるからな。では、明日また報告を聞こう」

 その先の会話は、足早に過ぎて行った廊下の先に、足音とともに消えていった。
 間違いなく、殿下と官吏たちの声だ。殿下と呼ばれるお人はこの国に一人しか存在しない。
 足音がすっかり去ってしまったのを確認して、小芳は恐る恐る顔を上げる。隣を見ると、皆一様に同じ顔をしている。
 殿下は、あの部屋に向かうに違いない。
 そう確信しているのに、不思議と先ほどまでのような噂話は沸いてこなかった。皆列を作ってしずしずと、仕事場まで足早に戻っていった。