「アイセ」

話しかけられるとは露ほども思わなかった上に緊張状態だった愛世は、自分を呼ぶ小さな声に気付かなかった。

「アイセ」

再び名を呼ばれると同時に出口の手前で腕を掴まれ、愛世は驚いてディアランを振り仰いだ。

腕に受けた熱い感覚に、あの光景が蘇る。

華奢な腕をディアランの逞しい裸体に絡め、甘く微笑んだあの女性。

色っぽい眼差しでそんな彼女を見つめ、口づけたディアランの横顔。

……嫌だ。こんなの耐えられない。

ディアランが幸せならいいと思おうとしても、素直に彼の幸せを喜べない自分が嫌になる。

もうこの辛い恋から抜け出し、穏やかで幸せな恋愛に身を沈めたい。

あまりの胸の痛さに、愛世はギュッと唇を噛みしめた。

「もうすぐ次の満月だ。宮殿から出るな」

ディアランはゆっくりと愛世から手を離すと冷たい声を出した。

あの女性にはあんなに優しく笑っていたのに……私にはこんなにも冷たい。

胸を焦がす痛みと、僅かに生まれる苛立ち。

愛世はディアランから眼を反らすと、負けず劣らず抑揚のない口調で返事を返した。

「それは、無理だわ」

「なぜ?」

まさか街で知り合った老人に、毎日山賊の話を聞きに出掛けているからとは言いにくい。