市河 夜凪というあたしの名前は、この街では本当の意味で知っている人は殆どいないと思う。それは、市河 夜凪が天涯孤独で社会からも外れているから、誰も知る人はいないというわけではない。
知られていないのは、市河 夜凪という確かな存在で、同時に市河 夜凪という不確かな存在でもある。
あたしには家族もいるし、友達だっているけれどそんな当たり前の事が、あたしには特別だったりもする。
そんな特別な当たり前を大切にしているあたしにとって、今日のこの朝早くに言われた言葉は衝撃的だった。穏やかで満たされていた日常が、崩れていく予兆が走った。
「やな、今夜空けといて。……つっても、お前が夜に予定なんて入れるわけないか。7時に迎えに行くから。」
比較的優しい口調だけど、何処か思い詰めた響きを捉えて彼を見据える。あたしは人よりも聴覚が秀でているらしく、声音の変化から感情を読み取れる。
特に彼の声音は聞き慣れたものだから、少しの音の乱れも聞き逃さない。だからこそ、これがただのお出掛けのお誘いだとは思わなかった。何か、ある。
普段からあたしに外出を、特に夜の外出を制限しているのは他ならぬ彼自身。その理由も彼の想いも理解しているから、制限されていることに不満はない。元々、インドア派でもあったし。
あたしは彼が淹れてくれたホットココアの入ったカップを両手で包むと、冷えていた手にその温もりが伝わる。少しだけ考える素振りを見せて、落としていた視線を彼に向ける。
「………善がゆうなら、待ってる。」
いつもの淡々としたあたしの口調にも、彼…善は気を悪くした風もなく笑った。無邪気でいて上品な彼の笑顔が好きで、思わずあたしも頬を緩めた。