「葵」





やはり、聞こえてしまっていたのだ。追いかけてきた仁は、息を切らしていた。





「……」

「……会いたかった」





仁は葵をそっと包み込むように抱きしめた。懐かしい仁の香りが葵を包む。



葵は、桃香の言葉を思い出していた。「あれは自分の嫉妬からくることだったと。仁はあなたを愛していると」。仁の胸の鼓動が伝わってくる。温かな胸にどんなに抱かれたかったか。それが今、こうして実現をしている。しかし、また葵の脳裏にパリの光景が蘇る。





「は、離して……」





葵は向きを変え、仁を突き放した。





「葵」

「忘れかけてたのに……忘れようと努力して頑張って来たのに……なんで、なんで思い出させるの? なんで放っておいてくれないの……」





自然と涙が出ていた。流れる涙を手の甲でふき取り、葵は仁に背を向け走り出す。





「葵!」





仁は走り出した葵の腕を掴み、振り向かせる。



以前の仁は、無理強いをしなかった。変に紳士ぶっていてみっともないことだと思っていた。しかし、それは間違いであったと後悔していた。



どんなに嫌われても、今以上は嫌われまい。自己満足だと責められてもいい。引き下がるのは、自分を全部さらけ出してからだと決めていた。葵の父親とも約束をしていた、もう後には引けない。





「葵、仕事が終わったあとでいいんだ。話をさせてくれないか? お願いだ」





仁は、切なげな顔をして必死に頼み込む。





「困ります」

「少しの時間でいい、頼む」

「いや!」





葵は掴んだ腕を振りほどき、走って仁と離れた。





「なんで、なんで?」



流れた涙の意味、ホテルに葵が働いていることを知っている様子、全てが疑問だ。



ロッカー室に戻り、顔を洗って泣いた目を冷やす。冷水を浴びて頭を空にしようとしても、一年振りに見た仁が瞼に焼き付いて離れない。





「まだ、仕事があるっていうのに」





名波商事の夕食と、次の日の朝食の準備もしなくてはならない。少ない人員で回しているのだ、一人でも欠けてしまう事はできない。鏡で顔を確認して、ロッカー室を出る。





「会議はもう終わる頃ね」





時計を確認して、事務室に向かった。



事務室では、夕食の最終確認がされていた。周りは慌ただしくなっており、重苦しい気分を引きずってなどいられない。葵は走って厨房に行くと、料理を出す順番、好き嫌いによるメニューの変更などを料理長と確認する。





「では、よろしくお願いします」





厨房から事務室に戻る。そこからロビーをそっと見てみると、名波商事の一行が、雑談をしながら海を眺めていた。ホテル内でも眺めがいい場所でもある。説明をしているのだろう、数名のベルボーイが相手をしていた。そこに幸いにも仁の姿はなかった。



ホテルの敷地内を通って、レストランがある。オープンテラスになっていて夜は松明の灯りで食事する。幻想的な灯りの中で食事をするという、ホテルの自慢の一つだ。



支配人が名波商事一行の案内を始めた。