虐めが、日本古来の文化であることを 論文にして、
一大哲学を伝播していく一派が 徐々にその勢力を増していった。
次第に 虐めの必要性が 高まりつつあった。もちろん、虐めによる犠牲者も増える一途ではあったが そこを乗り越え 克服しなければ 社会に解き放たれたときの 対処法が得られずに 企業の犠牲者たる運命を強要される弱者の悲劇の方が 自殺の要因の大半の%を 占めていたのだ。
切磋琢磨、、、いかにも如何わしい弱肉強食擁護の方便ではあるが、意図的な芝居の意味での思いやりの計算ゆえの仕掛ではなく、 ムカツク相手への無思慮の攻撃が、虐められるターゲットたちの唯一の救い、、、この図式に気付き始めた虐められる側の自虐的メッセージが 世の敗北者達から、囁き伝えられていったのだ。
虐める側も 馬鹿じゃない。 虐め甲斐のある奴を死に至らしめるまでは追い込まない方策を模索し始めたのだ。 「生かさず殺さず」この手法を会得することが、彼ら虐めを得意とする人種の生きる術、その事に気付き 実践し始めていた。 「使える奴は 一生 便利に使い続ける、」 そういう図式を確立しないと 次に虐められるのは 自分たち自身なのだ。
虐めは 進化のために必要な方式の一つでもあるが、一方 虐めもその状況下で 進化し続けていくのだ。
この世界から 虐めをなくそう、、、
残念ながら このメッセージは 虐めの被害者でもなく加害者でもない
傍観者達から、叫ばれたスローガンだった。
彼らの多くは 虐めの怖さも快感も実感できない人的欠落の欠片を所有しない集団であった。
これらの多くはつまり、 進化の過程にとっては不必要な存在であった。
実は絶対多数の彼ら傍観者の意思は 微弱な力しか持ち合わせていない。 ”大衆に紛れる平凡力”、、、確かに このパワーの魅力は 一個人の活きるためだけには 有効である。しかし、種の保存の意味での 他生物との競争力強化のためには 無力以外の何物でもない。
徐々にではあるが、進化の加速度妨害分子たちは その数を減じていった。ほぼ二者択一の図式が確立されつつあった頃に 虐め首謀者徴兵制度 の法制化、施行が 閣議決定されてしまったのだ。