薫子さんと主任の恋愛事情


現実世界の男性に告白されたこともなければ、付き合ったこともない。いまだ二次元のキャラクターに恋しているし、でも本当の恋の仕方はわからない。自分自身に自信もなければ、八木沢主任に釣り合うとも思えない。

でも何故だか、どうしてかわからないけれど、『わかった』とうなずいてしまいたい自分もいて。心の中で矛盾したふたつの気持ちが、ぶつかり合っていた。

「そんなに深く考えるな。お試し的なつもりで始めればいいだろ? と言っても、俺はお試しで終わらせるつもりはないけどな」

左頬に当てている手で二度ほど撫でると、八木沢主任の手が離れていく。

「や、八木沢主任は彼女いないんですか?」

往生際悪く、今さらながらの質問をぶつける。

「いたら告白なんてするか。もう一年以上、薫子に片思い中だ」

「そ、そうですか……」

八木沢主任、これはどうやら本気らしい。

私の中の気持ちは、まだ八木沢主任にまっすぐ向いてはいないけれど。私の現実世界での恋愛のあれやこれを教えてもらうのは、八木沢主任でもいい?

素直な気持ちで自分の心に聞いてみると、心臓がトクンと音を立てた。

颯、ごめん。八木沢主任のことは、信用してもいいかなと思って……。

颯のことを裏切るつもりはないけれど、八木沢主任の言葉に素直になりたい自分もいた。




「私、八木沢主任が思ってるほど、真面目じゃないですよ?」

「ああ」

「兄四人の中でもまれて生きてきたので、力もあるしおとなしくないですよ?」

「そうか」

「乙女ゲームやアニメが好きな、オタク女子でもいいんですか?」

わかりきっている自分のことなのに、だんだん切なくなってきて声が小さくなっていく。

「心配するな。どんな薫子でも、薫子は薫子だろ。そんなことくらいで、俺の気持ちは変わらない。だから安心しろ」

八木沢主任の優しい声色に、頑なだった気持ちが緩和していくのがわかる。

お試し的なつもりで……。

八木沢主任もそう言っていたし、こんなチャンス、もう二度と訪れないかもしれない。たとえお試しで終わったとしても八木沢主任とだったらいい思い出になるだろうし、休みの日は家に引きこもってばかりで男の人との出会いもない私にはもったいないくらいの話。

急にこんな展開になってるし、三次元の男性と恋をするなんてまったく自信がないけれど……。

真っ直ぐ前を向けば、柔らかい眼差しで私のことを見つめる八木沢主任がいて。颯がゲーム機の中から見つめる瞳もドキドキするけれど、それとは別の何か……もっと熱い気持ちが私の中に湧き上がってくるのを感じた。




その気持ちに素直になろう──

大きく息を吸うと、八木沢主任を見つめた。

「あの……ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

ふつつか者って……。

言ってから、少し後悔。でも八木沢主任の嬉しそうな顔を見て、ホッと胸をなでおろす。

「おう。こちらこそ、よろしく」

差し出された手に自分の手をそっと重ねると、ギュッと握手を交わす。

男の人の指って、思っていたより細くて骨ばってるんだ……。

兄たちの大きくてごっつい手しか知らない私は、そんなことが気になってしまって。目線を下げると、八木沢主任の手をまじまじと眺めてしまう。

「おまえ、それ見過ぎだろ」

八木沢主任はそう言って笑い出す。

お、おまえって……。その呼び方、乙女ゲームのお決まりの呼び方で萌える。

なんて、こんな時に何を考えてるの!

「す、すみません」

自分がしていることに気づき慌てて手を離すと、何度も頭を下げる。

恥ずかしさが身体中に充満。それを隠すように、すでにコップに注いであったビールをまたもや一気飲みした。
でも、それがいけなかった。




空きっ腹にビールを二杯一気飲みでテンションの上がった私は、運ばれてきた天ぷら定食を食べながらひたすらビールを飲み続け。飲んで飲んで飲み過ぎて記憶をなくした私は、どうやって家に帰ってきたのさえ覚えていない始末。

息苦しさに目を覚ましヒドく痛む頭を押さえながら起き上がると、何時なのか確認しようとしてベッドの横にある棚に手を伸ばす。

「……ん? あれ?」

ない。いつもならこの辺りに置いてあるはずの、目覚まし時計がない。

おかしいな、目覚まし時計をどこかに移動させた覚えはない。こめかみを指で押さえ頭の痛みを抑えながら、ゆっくり目を開けてみる。

薄っすらぼやけて見える窓には、シンプルな茶系のカーテン。少し顔を動かすと棚だと思っていたところには、木目調のお洒落なパソコンデスクがある。

私の家のカーテンはオレンジ色だし、こんなお洒落なパスコンデスクはない。あるのは実家から持ってきた古い棚と、子供の時から使っている学習机。それと颯のグッズに、乙女ゲームやアニメ関係ものばかり。それらが一切ないということは……。

ここは一体どこ?

重だるい身体をなんとか動かしベッドの縁に座ると、寝ぼけていた頭が覚醒し始める。

ゆっくり室内を見渡す。すると足元に服が散乱していて、よく見るとそれは私が着ていた服? もしやと思い、自分の格好を確認すると……。

「イヤッ!!」

下着の上にキャミソールだけという、あられもない格好で。慌ててベッドの中に入り込むと、何やら温かいものに手が触れた。




な、なに?

驚いて振り返るとそこには、寝息を立てて寝ている八木沢主任がいた。

人間って驚きすぎると声が出なくなるとか言うけど本当みたい。ここから逃げ出さなきゃと思うのにこんな格好ではどこにもいけなくて、毛布に包まりながらただ黙って八木沢主任を見つめていた。

「なにひとりで、ジタバタしてるの?」

寝ているはずの、八木沢主任の形の良い唇が動く。

もしかして寝言?と顔を覗き込もうと身体を動かせば、急に伸ばされた八木沢主任の腕に捕らえられそのまま胸元へと引き寄せられた。体勢を崩した私の身体は、そのまま八木沢主任の胸に飛び込む。

「うわっ!」

大きな声が出てしまう。慌てて離れようとしたら、私の背中に回った八木沢主任の手に力が入る。

こんなこと困るのに……。でも八木沢主任の身体からは爽やかなシトラス系の香りが漂ってきて、私の思考能力を鈍らせていく。

とは言えこんなことは初めてで、身体は固まったまま。

なんで、こんなことに? それになんで、八木沢主任は裸なの!?

太腿の辺りに布地を感じるから下着は履いてるみたいだけど、目の前は素肌の胸元で。生まれて初めてのリアルな男性のぬくもりに、頭の中は大混乱。

「薫子は俺の恋人だろ?」

「恋人……なんですか?」

「付き合ってるんだから恋人。だからこうして抱き合っていても、なんの問題もない」

そう言って抱きしめる腕に力を込めると、余計に身体の密着度が増してまたしても緊張で身体が硬くなっていく。




付き合っていると言ったって、まだ昨日スタートラインに立ったばかり。お互い好き同士で始まった恋ならともかく、私の気持ちはまだ八木沢主任に真っ直ぐ向いていない。今のところ10対8で、颯の方が優っている。

……ってそんなことより。

「なんで私は八木沢主任の家にいるんですか? しかもなんで下着姿なんでしょう?」

そうだ。今のこの抱きしめられている状況より、そのことのほうが大問題。八木沢主任ともあろう人がまだ本当の恋も知らない、酔っぱらって記憶のない女を家に連れ込んで、まさか無理やり抱くなんて思ってはないけれど。ここはきちんと確認しておかないと、後々困ることになるかもしれない。

「覚えてないんだな」

「覚えてたら聞きませんよ。ちゃんと本当のことを教えて下さい」

八木沢主任が少し呆れたように言うから、口調がぶっきらぼうになってしまう。

「薫子おまえって、酔うと陽気になるんだな。もうハイテンションでさ『今日は家に帰りません』って大騒ぎ。まあ住んでるところも知らないし、ここに連れて帰ったら……」

「連れて帰ったら?」

八木沢主任がそんなところで口ごもるから、嫌な予感がして手に汗がにじむ。

「いきなり暑いとか言い出して勝手に脱ぎだすから、こっちのほうが面食らったぞ。俺がその姿まででなんとか抑えたけど、薫子もう少しで全部脱ぎ……うぐっ」

「わ、わかりました! もう、それ以上は言わないで下さい!!」

身体の間に挟まっていた両手を抜き出すと、目一杯伸ばして八木沢主任の口を押さえた。




私って、そんなに酒癖悪かったんだ。今まで飲み過ぎなくて良かった……って、そうじゃなくて。

いくら付き合うことになった八木沢主任の前とは言え、初日にそんな醜態を晒してしまうなんて。

今すぐ、消えてしまいたい……。

八木沢主任の口から手を離すと、慌てて毛布の中に潜って小さく丸まった。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

心配そうに聞く八木沢主任の大きな手が、私の背中を優しく撫でる。

「どこも悪くありません。ただ自分のしたことが情けなくて……」

さすがに消えることは出来ないから、せめて存在を隠そうとしています。

でも八木沢主任が撫でてくれている背中がポワンと温かくなってきて、気持ちが安らぎ落ち着いてくる。

「なあ、今までに飲み過ぎて、こういう状態になったことあるのか?」

「そ、そんなのないです。ないに決まってるじゃないですか!」

女の私にそんな前科があったら、お酒を飲むのはやめているはず。いくら三次元が好きだと言ったって、そのくらいの恥じらいはあるというものだ。

「ということは、薫子は俺に気を許してるってことじゃないのか?」

「え?」

八木沢主任に気を許してる? 私が?

まったく想像もしていなかった言葉が返ってきて、その真意を確かめようと丸まっていた毛布から少しだけ顔を出す。




「それって、どういう意味ですか?」

私が気を許す相手なんて、家族くらいなもの。それでも最近は離れて暮らしているせいか、久しぶりに会えば多少緊張したりするのに。

「少なからず、俺のことを嫌ってないってこと。今だって、そうだろ。いくら付き合うことになったと言ったって、こんな状況に驚いて逃げるってのが普通じゃないのか?」

そう言う八木沢主任の口元がニヤリと動き、なんだか楽しそうに人の顔をじっと見つめた。

逃げる? どの口が、そういうことを言うのかまったく理解できない。だって今の私は八木沢主任の腕に抱え込まれていて、逃げることは疎か動くことだってままならない。

それにキャミソールと下着だけのこんな姿じゃ、毛布から出られない。

それをわかっていてそんなことを言うなんて……。

「八木沢主任は、意地悪なことを言うんですね、」

「そうか? 結構優しいと思うけどな」

どこが……。

今だっておかしそうに笑いながら、私の身体を撫でてるし。言ってることとやってることが違うって言うの!

だから早くここから出なきゃって思うのに身体が動かないのは、抱きかかえられていることだけが理由じゃないのを少し前から感じ始めていた。




「そろそろ離してくれませんか?」

なるべくいつのも自分のように冷静を装う。でもそれが怒っているように見えたのか、八木沢主任が少しだけ動揺を見せた。

「いいか薫子、よく聞け。俺は酔った女を抱くほど、悪い男じゃないからな」

「はぁ?」

「指一本触れていない……ってこの状態じゃ、説得力がないな」

八木沢主任はアハハと笑ってみせると、私の身体から腕をほどいた。

と言っても同じベッドの布団の中で、身体が触れているのは変わらない。八木沢主任が上半身裸だったことを思い出し、ひとり身悶える。

「そ、そうですよ。八木沢主任、なんで裸なんですか?」

八木沢主任が意識のない私を、勝手に抱くような人だとは思っていない。今まで現実世界の男性と付き合ったことがないのだから、いわゆるそういう経験はないけれど。何もされていないことは、自分の身体のことだからわかる。

でもなんで裸なのかは、気になるところで。

「ああ、これな。癖っていうか、寝るときはいつもこの格好なんだよ。普段はパンツも履いてないぞ」

「パ、パンツも……」

男がゴロゴロいる家庭で育ったからパンツの中にあるものは見慣れていて、おもわず想像してしまい顔を押さえた。
よ、よかった。パンツ履いていてくれて……。

恥ずかしさから赤くなっているであろう顔を見られないように身体を反転させ背を向けると、ほっと息を吐く。