彼女は静かに瞬きを一度だけして。

――
すると

彼女の唇が動いた。



くびを傾げると彼女はちょっとふくれた表情で、ため息をついた。

駆けてくる彼女が見えたかと思うと。

ぴょんっ…

一瞬、彼女が僕の前で
きえたんだ。





やわらかな感触。

甘い温度。

小さなちいさなものが、愛しく唇に触れてくる。



 …ちゅっ――――


「好きになっちゃった。
明日も、明後日も、明明後日も。
あなたに会いたい。
あなたのことをもっと知りたい。もっと、もっと、もっと知りたいわ。
私のことも知って欲しい」
――――――――――




―――――

―――――――――――









チュンチュン…

チュンチュンチュンチュン…



耳障りでいて
そうでもない小鳥たちの囀ずりに僕は起こされた。

ベッドのしたに脱ぎ捨てられた茶色い靴下。

髪をグシャグシャとさすりながら床を歩いてグリーンのカーテン開けた。

しゃっ――――



うっすらと

 …記憶にある。

  ニットワンピースの女の子、“花菜(はな)”。


妖艶。

天真爛漫。



小悪魔。





「また、お願いいたします。花村様」

ぱたん、という車のドアを閉める音で僕は現実に引き戻された。
新入社員、6ヶ月めの僕はほとんどコイツの飾り物だ。バスケットのゴールリングみたいなもの。

「……」

あわててコイツが振り向く前に頭を下げた。


「行くぞ」

「ハイ」


重い鞄。
僕の学生時代より重い。

「いい記事書かなきゃな…」

中身はほとんどが書いたパクリの癖に、と思いながら苦笑い。

「うさぎが良いよな?」

所長の長春(ながはる)が僕の隣の席に座った。


「ウサギ…ですか? …って、なんの話ですか?」

「十五夜さんの企画」

「…十五夜さん」

僕はゆっくりと意味を探るように唱えた。

「今月の素人作家を書いてみないか?」

素人作家、とはわが社の雑誌の小説コーナーで毎月、連載しているもの。
アマチュアには登竜門。

「記事を書いてくれないか? 物語を書いてくれ」

僕は彼女の事を思い出していた。
満月より微かに隠れたけぶる灯りに包まれた影。



タムタム…
タムタムタムタム…

かしゃん…

足元に転がるボールを他所に振り返った。



高校生のカップルがフェンスに当たって甘い笑い声と二つの横顔が、見えた。

……
がらにもなく、ため息をついときだ。

ボスっ…!



「…でぃえ?!」

頭を押さえて振り向くとまたまたがらにもなく、緩んだ。

「イチャイチャしてるね」
「いつからいたの」


彼女はボールを拾うと子砂利を払い、髪を耳にかけながらハイと渡してきた。

「花菜…さん」

「花菜でいいよ。裕(ひろ)」

 ……え…?

名前…
何で知ってるんだろう。

「名前、いつ言ったっけ」

「聞いてないよ。花菜は言ったよ、昨日の夜」

「じゃあ、なんで…うぁっ…」

ボールが顔面にぶつかりそうなってた。

「ストーカーじゃないわよ? 私はずっと前から裕を知ってるの。
私は可愛くなって早く、裕に会いたかったの。
彼女になりたくて頑張ってたの。だから、裕は私の初恋のひとなんだよ!」

土足で飛び込んでくる女の子、花菜に僕は踊らされてばかりだった。

きゅっ…

靴紐を結んで笑みが滲んだ。

心のどこかに彼女の笑顔がいつもいる。
それが心地よくて、また会いたくなる。
ドアを開けたら、雨が降っていた。

雨なら月は出ない。

雨の降る日には行きたくない。



コーヒーでも飲もうか。

部屋に戻り、モカコーヒーを入れたマグカップを片手にジーパンのウェストを上げながらソファーに座る。
肌寒い。
カーテンを閉めよう。

…ん?…


目を疑った。

広場のぼやけた視界のなかにハッキリと見えた。

バサッ…!





水色の布が視界を支配した瞬間。

彼女は踞った顔をあげた。


コツン…

わざと傘の柄を彼女の手にぶつけた。

すこしビックリした様子だったけれど、
それを持てと言われていることに気づいて握った。

ぼくはすぐさま、トレーナーを脱いだ。
バサッと乱雑に体にかけてやった。
彼女は細身だから、借り物まるわかりなトレーナーを見て笑った。

「裕!」

「…ぅわっは!」


人口芝に転がる傘を他所に僕は尻を着いた。

きゅっと抱きついてきた。
彼女は耳元で甘くささやいた。

 ――――好きよ、裕。
会いたかった。



…不覚だ。

凪がされた――――…





「おじゃましまーす!!」

ソファーに座った彼女は部屋を珍しいものでも見るようにぐるぐると、みている。

「そんなに珍しい?」

紙コップにミルクをおおめにいれたコーヒーをテーブルにおいた。

「大人みたいな部屋」

「…大人だもん、一応。俺は一応これでも27歳。編集者の見習い」

ふーん、と言って何かを思い出したようににやけた。
「なに?」

「んー、キスしちゃったね。さっき」


フレンチなやつ。

あんなのは小鳥の真似事にすぎない‥と思うけど。



「キスくらいで騒ぐな、事故だろ。勧誘したくせに」
ことんっ…

彼女はコップをテーブルにおくと、隣に座った僕に再び抱き付いてきた。

「ぅおい…んっ!」


深くはいる舌先。

魔性の感覚に僕は簡単に理性を外されてしまった。

熱っぽいため息が漏れてしまう。

「…あっ…ぃ…」


夜中にめが覚めると、隣に彼女はいなかった。

「花菜?」

家じゅうを探しまわっていたら、風呂場のドアが開いていた。

「花菜…!」

僕は夢中でドアに手をかけた。

ザバァーッ!!





シャワーの水圧に思わずドアを閉めた。

「裕のえっち」

すっかり着替えた花菜がバスタオルで髪を拭きながら出てきた。

「…ゴメン」

彼女からバスタオルを受け取りながら誤った。

「帰るね」


そとはまだ本降りだ。
それに夜中だ。
月だって雲の切れ目に見えるくらいだ。

「まだ、暗いよ?
どうせなら、朝になってから帰れば…?
それにバスとか走ってないっしょ」

「帰るの!私は夜しか動けないの」

「…へ…?」


彼女は玄関でサンダルを手早く履いた。

「送るよ、暗いし」

「来ないで。ついて来たら、私は2度と裕に会えなくなっちゃうから」


彼女が謎めいた言葉を残して帰った翌日は晴れていた。久々の晴れた日曜日なんて家にいたくない。

高校生のときからつるむ友達。いや、どちらかと言えば…親友かな。



何の気なしに僕は彼女の話をした。

「それって不倫じゃね?
大丈夫かよ…!」


大翔(はやと)はコーラのコップを手前に押した。

「不倫? 若いよ? 僕くらいなのに」

「若いから歳上の旦那に飽きたんだよ!」

「まさか」

「夜しか動けないって、夜しか自由になれないって話だろ」

「月が見える日にしかいないんだよ」

彼はじっと、僕の顔に自分の顔を近づけた。

「何でそんなに庇うんだよ。お前、えっちしちゃったわけ?」

「事故だよ…!
あんなのは。飛びついてきたことも、キスをしてきたことも」



ムキになって怒ったものの、僕は彼女を知らなすぎた。
本当に彼女は不倫だったとしたら…。

―――――

――――――――――





「裕くん!」

月が藍色の空に姿を見せた頃。
コンビニで買ったおでんをぶら下げて、アパートの外階段を昇って来ると玄関の前にちょこんと座っていた花菜が立ち上がりニッコリと此方を見て微笑んできた。

「…何でわざわざ夜に来んの?」

面倒な声を投げながら内心、嬉しくてたまらない、なんてくちが裂けても言うものか。


「会いたいから跳んできたの」

ぴょんぴょん! なんてウサギ真似をされたら呆れたブリって見える行動さえも可愛く見えるなんてやっぱり、僕の頭がついにイカれたんだろうか(笑)。

「堪ってるよ、俺。色々」

襲います宣言をしても実行なんてしないで終わるんだろな…。

パタンっ…。


「…おい?!」


部屋でワンピースのボタンを外し始めた彼女の手を止めた。

「裕くんが抱きたいって言った」

「言わねぇし!」

「さっき、堪ってるて言った」

「だ、だからって…易々と脱ぐんじゃねぇーよ!」

「私はずっと、人間の女の子に成りたかった。
裕くんが初めてじゃなくてもいいの。
私は裕くんと恋をしたかったウサギです」

花菜は泣いた。
大きな涙をみせた。

「女の子としてキスが出来て嬉しかった。
抱きしめられて温かった。」

 ――神さまは残酷でした。



愛を知ると、ひとりになるのが恐くなる。

ひとりは寂しいと気づかせる。



愛しいひとと

出会う奇跡と別れる運命を

  …選ばせる。



「私は幼いあなたに助けてもらった兎です。
怪我をした私を洞穴に様子を毎日見に来てくれたことがありました。
お礼を言いたくて、私は森の神さまにお願いしました。月が空に見える夜にだけ、貴方に会いたいと願いました。
神さまに言われました。
人間と交わりを持ってはならない、それは生命の秩序を崩すことになると」


だから、私は―――

 ……命を絶つ覚悟だった。