殻はなかった。
それは、わたしが勝手につくり出していただけだった。
目に見えない、実体すらない殻のなかに、
自分から閉じこもっていたにすぎない。
人と接することに怯えて、自分からバリアを張っていたんだ。
なかった。
殻なんて……
はじめからどこにも、
存在してなかった――
涙ににじんだ視界で、指先に触れた高槻くんの体温だけが鮮明だ。
わたしの手をきつく握り締めて、高槻くんが言う。
「もう一度、やり直させてほしい」
わたぐものように、ふわふわとあたたかな空気に包まれる。
「――奈央」
正面から抱きしめられて、わたしは固まってしまった。
高槻くんのかたい胸に、涙に濡れた顔が押し付けられる。
「ずっと好きだった。俺と、付き合ってください」
心臓の音が聞こえてしまいそう。
身体が硬直して、何も答えられないでいると、
ふっと、ちいさく笑う声が聞こえた。
「まあ、たとえ断られても、あきらめる気なんかないけど」
「え……」
顔を上げると、高槻くんははっとしたようにつぶやいた。
「やべ、俺ってほんと、ストーカーみたいだな……」
自分でショックを受けたように言うから、
つい笑ってしまった。
目を向けると、高槻くんと目線がぶつかる。
彼のぬくもりに包まれながらの視線の交わりは、ことのほか心臓に悪くて、
わたしはふたたび固まってしまう。
と、わたしを見下ろしていた顔が、優しく崩れた。
「ようやく、笑った」
嬉しそうな微笑みに、わたしの心臓はぼん、と破裂した。
「た、高槻くん、離して……ください」
自分の顔がありえないほど赤くなってるのが分かる。
これ以上くっついてたら、恥ずかしすぎて、死んでしまう。
胸の高鳴りがバレてしまう前に、逃げ出したいのに。
「まさか」
高槻くんはさらにがっちりとわたしに腕を回して。
「もう、離さない」
噛み締めるように、ささやいた。
諦めない
○。
川には自浄作用というものがある。
汚れた水は、流れに従って浮き沈みを繰り返し、あちこちで岩にぶつかり、
砂にろ過されて、汚れを落としたきれいな水に変化する。
黒くよどんだ心も、前を向いて歩いているうちに、いつのまにか色を変えるらしい。
棚にずらりと並んだクマのぬいぐるみから、真っ黒に塗りつぶしたメモ帳をすべて取り出す。
びりびりに破きながら放っていくと、ゴミ箱はあっというまにっぱいになってしまった。
「われながら、よくこんなに溜め込んだなぁ……」
呆れを通り越して感心してしまう。
それからわたしは、ゴミ箱の中身をゴミ袋にあけて口を閉じた。
「よし、完了」
ふと見ると、仲良く肩を寄せ合うクマたちも、
こころなし、ほっとしているように見えた。
教室に入ると、朝子は相変わらず窓側の席で参考書をめくっていた。
「おはよう」と声をかけると、
いつものようにすました猫のような目をわたしに向ける。
「おはよう奈央」
彼女が今日読んでいるのは、新品の参考書らしい。
同じ授業を受けているはずなのに、視界に入った文字がわたしにはただの記号にしか見えない。
「それ、新しい参考書? 前のやつ分厚かったのに、もう読んじゃったの?」
カバンの中身を机にしまいながら話しかけると、朝子は手元を見たまま答える。
「ああ。これは2年の内容で……、あ、そうそう、この本、実は」
朝子がめずらしくわたしを振り返ったとき、
背後でぴしゃーん! と教室の扉が音を立てて開いた。
「奈央ちゃあああん!」
耳をつんざく叫び声に振り向くと、金髪のアイドル男子が駆け寄ってくる。
「ほ、星野くん、おはよう」
別れの気まずさを吹き飛ばすくらい、態度の変わらない彼に驚きつつ挨拶をすると、
「ストップ。それ以上はこの子に近づかないでいただきたい」
思いがけず、朝子が席を立った。
「あ、朝子ちゃん……?」
「あん? なんだおまえ」
わたしをかばうように目の前に立ちはだかった彼女は、
学年ナンバー1の眼力にも屈せず、悠然と腕を組む。
「ちょっと約束をしたんでな。奈央に指一本触れさせるわけにはいかない」
「ああ? おまえ、なんの権利があって」
「それを言うなら、そちらだって、この子に触れていい権利なんてないはずだが」
いくら学年ナンバー1のアイドル男子といえども、
口では学年トップの秀才女子には敵わないらしい。
ぐっと息を詰める星野彗を尻目に、わたしは朝子の肩を叩いた。
「ねえ、約束って……」
そのとき、教室に背の高い男子生徒が走りこんできた。
教室内に、ぱっと花が咲いたかのような整った風貌に、わたしもクラスメイトたちも釘付けになる。
ここ数日、2組に入りびたりだった金髪アイドルとは、正反対のかっこよさを持つ、彼。
高槻くんは息を切らせながら、焦ったように星野彗の肩をつかんだ。
「何やってんだよ、セイ」
「なにって、見りゃ分かるだろ? 奈央ちゃんにおはようのハグをしようと思ったら、この女が」
指を差された朝子が、つんとした表情のまま席に戻る。
「高槻礼央。その下品な頭の男に、奈央は指一本、触れさせなかったからな」
「ああ、サンキュ、奥田」
高槻くんと朝子のあいだで交わされる言葉に、わたしはぽかんと口を開けてしまう。
「ど……どういうこと?」
ふたりの顔を交互に見ていると、
秀才朝子が机に広げていた参考書を、高槻くんに向かって掲げて見せた。
「あ、そうそう。もらった図書カードでさっそくこれを買わせていただいた」
「……ああ、そう」
高槻くんは少し決まりが悪そうにわたしから視線を外し、星野彗の襟首をつかむ。
「ていうかセイ! お前は振られた相手にしつこく迫ってんじゃねえよ」
暴れるアイドル男子を引きずるようにして、高槻くんは出口に向かっていく。
「うるせえ! 俺はエンジェルチャージしねぇと死んじまうんだよ」
「知るか」