「・・・朱夏兄様?」
急に肩をたたかれてふいに振り返る。
「あぁ、やっと気づいてくれた。先ほどからお呼びしてたのですが、お気づきにならなかったので肩にふれてしまいました。ご容赦ください。すこし休憩にしましょう。」
肩にふれられたことなど気にならなかったが、呼ばれていたとは気付かなかった。真昼様に触れられた肩に自分の手を起き、明るかった窓辺の方をみると日が陰り始めていた。いったい何刻たっていたのだろうか。
「今は夕方です。恐れ多くも朱夏兄様の年頃の子供にはまだおやつが必要ですから、おやつの時間に声をかけようと思っていたのに、わたくしも実験結果をまとめていて気づいたらこんな時間でした。」
俺の思いを見透かしたかのように真昼様は反射する眼鏡の奥で楽しそうに笑った。
その表情を見て、また実験帳に目を落とす。
この実験帳は真昼様のものではないようだ。
どうやら貴重な薬草である仙人草から薬用成分だけ効率的に取り出す方法について実験されていた。

これまでの真昼様の帳面は心地よく数式が頭の中を流れて結果を生み出し、ぴたりぴたりとパズルのピースが当てはまる快感はまさに恍惚だった。
しかし、この帳面の持ち主は試料が足りず、実験を完結できていないようなのが残念だった。
「実験の理解がはやいですね。同様のことを朱夏兄様と同学年で研究部門に配属されてきた子たちは悪戦苦闘しています。」
真昼様は私の解き終わった実験結果をぱらりとみて、うなずく。
やはりこれは試験だったのだ、そして俺はその試験に受かったと思い、安堵した。
どうやら検算結果に問題はないようで、俺の能力は高く評価されたようだったからだ。
「楽しかったのです。真昼様の実験を追うのが。しかし、最後のこの帳面は誰のでしょう。ここで終わるなんてもったいない」
真昼様は私の側にあるうつくしい表紙の実験帳をなでる。手は大きく器用そうな手だった。
「本当にそうおもいます。」
そうまえおきし、
「こちらは、おそらく朱夏兄様のお父上である聖夜兄様の実験結果です。」
言葉が出てこない。これが、父上の・・・?
それにしては表紙も帳面もきれいだった。父上は10年も前に亡くなられたのだ。
その割に経年劣化が見られないのはなぜなんだろう。
「詳しいことはおやつを食べながらでも話しましょう。」
真昼様は驚いている俺と違って、むしろ楽しんでいるように机の下からごそごそと両手で持てるほどの缶を机に出す。朱夏は父上の帳面がなぜこんなに美しく現存するのか、早くそれが聞きたいが、鈍色で見たことのない細工が施されている缶をみると心がワクワクするのを抑えられない。
試験が終わった、そんな勝手な安堵が俺の緊張感をなくさせていた。
真昼様が缶を開けると甘い香りが鼻孔をくすぐった。それだけではない。見たことのない動物の形や花の形の焼き菓子、赤や黄色の砂糖をかけて保存性を高めてある果物がぎっしり入っている。
「わぁ、綺麗・・・。宝石箱みたい。」
俺は思わず目を見開いた。
「女の子は可愛いものや甘いものに目がないですからね。」
真昼様は懐から懐紙を取り出して缶の中から適当に出して並べてくれる。
そのしぐさは女性慣れしているのだろうと感じさせるものだったが、朱夏はそれ以上に真昼様から飛び出てきた言葉に心臓を飛び上がらせた。怖くて真昼様の表情を確認できない。
「や、やだな。俺は男ですよ。甘いものや見たことがないものに反応しただけで、女の子だなんて。」
一瞬冷静になった目がまたふっと緩む。
「そんなに動揺なさならないでください。私は一般論を述べただけですよ。そんな風に無防備だから貞女殿が心配なのですね」
真昼様は眼鏡の奥でおかしそうにくっくと喉を鳴らしてわらう。
頭の中はさきほどより混乱し、心臓が音を立てているのが分かる。顔から汗が噴き出そうになる。
真昼さまの部屋に呼ばれたのは研究部門への試験などではなかった。
・・・真昼様の目的はこれだったんだ。

真昼様は机の上に懐紙を引き缶の中からひとつづつ動物の形の焼き菓子を出していく。
「虎、ねこ、ペリカン、象、ラクダ、うさぎ・・」
聞いたこともない、見たこともない動物が並べられるのを黙ってみていた。
子供のころこんな遊びをしたような気がするし、していない気もする。
頭の中ではこの場をどう切り抜けようか。ぐるぐると思案を巡らせる。
「・・・懐かしくて、王都に行ったら買ってしまうのです。頭を使うとついつい手を伸ばしてしまう。この茶は桜の葉のお茶です。」
どうやら真昼様は俺が女であるという何らかの事実を得ているのだろう。勝ちを確信しているらしい。
その仕草から鼻歌でも聞こえそうなほど余裕な表情でお菓子を並べ終わり始めてみる薄黄緑色のお茶を入れ世間話を始める。
何事もなかったかのように。
俺も変わりなく世間話に乗ってやる。
何事もなかったかのように。
これからも起こらないかのように。
「真昼様は王都にいけるのですね。」
皆本一門は基本的に大江山一帯から許可なく外に出てはならない。屋敷から外に出るのにもそれなりに許可が必要だ。それは薬の調合や創薬の秘密を守るためであり、隔絶されて生きているのだ。
屋敷はそれなりに広く作ってあるし、王都から行商もやってくる。生活には困らない。
しかし、王都には何があるのだろうと、俺ぐらいの子供なら誰しも思う。
当然俺も思っていた。
真昼様がお茶を入れてくれたので目下の者には目礼で返す。礼儀である。
「えぇ、大江山で作ったいろんな薬を神殿に卸しに行く許可をもらっているのです。」
王都では神殿で民に薬を渡す。そのために大江山で作られた薬は神殿に持っていき、報酬をもらう。
真昼様は焼き菓子の一つを手に取った。朱色の目のウサギだ。
「さぁ、どうぞ。朱夏様と同じ朱色の目ですね。」
にこりと笑った真昼様はウサギの焼き菓子をつまみあげて俺の口元まで持ってきている。
真昼様は意識的に先ほどから名前に「兄様」をつけるのをやめたようだった。
焼き菓子とその奥にいる真昼様をにらみつける。
こんなことは大人から子供への愛情表現や、身分の高いものから低いものへの施しで行われる行為であり、朱夏の目には勝ち誇って馬鹿にしている行為にしかうつらなかった。
「なんて無礼な。」
憤って心の声がつい口から漏れた。
真昼様を無視し、礼儀に則って机に並べられた虎の焼き菓子を目礼してから懐紙に包んで一口食べた。
咀嚼すると香ばしい木の実の味と異国の香辛料の香りが口の中一杯に広がり、あまりの甘さに唾液があふれるように出てきた。口の奥が縮まる様に痛い。
真昼様にはウサギの焼き菓子を持って待ちぼうけをくらわせた。
「・・・強情だな。」
その一言で真昼様は椅子の背もたれに背を預ける。
それまでの丁寧な口調ではなかった。
何かが切り替わったような気配がした。
口を割らないのが気にくわないのだ。
ただ、売られたけんかを買ったのだからこちらにだって相応の覚悟はある。
虎の形の焼き菓子を咀嚼し終わって桜の香りを楽しむことなく茶を流し込む。
真昼様は苛立ちを隠すように、手に持ったウサギの焼き菓子をそのまま自分の口に持っていき咀嚼する。
「なにか、勘違いしておられるのでは。俺は男です。そして皆本の嫡流として聖者を継承する順位はあなたより上だ。礼儀をわきまえよ。」
強く、制するように言ったつもりだった。
「姉様。」
しかし俺を制する大人の低い声に俺の体はびくりとなった。
姉様。
そうよばれていた時があった。

自分でも忘れていた朧気な記憶がよみがえる。
あぁ、これは俺の幼いころの記憶だ。
あれは朝陽叔父上が留学から帰った頃だから俺は4歳くらいだろう。俺は朝陽叔父上が留学に行っている時に生まれた子供だ。朝陽叔父上は留学から帰ってくるまで俺の存在をしらなかったのだ。
「朱夏、朝陽が留学から帰ってきたんだ。お前の叔父上だよ。すこし驚かせてやりたいから、朱夏が女の子とわかったら負けという遊びをしよう。私が良いというまでだ。…約束だよ。」
父上の優しい仕草や声を思い出す。わたしの顔にかかった髪の毛をそっとよけてくれた。
そして父上は「女の子に戻って良い」と言う前に亡くなってしまった。
母上は父上が亡くなったときふわりと俺をそのしなやかな両腕で包み込む。耳元で吐息が漏れる。
「朱夏はまだ男の子よ。父上との約束を守り、朝陽殿に負けないで。母はお前のことが見えなくなるかもしれない。でも忘れないで。父上も母も朱夏を愛してる」

そう不思議に予言めいた言葉をいいのこして朝陽叔父上のもとへ身を投じるように結婚した。
時に朝陽叔父上をたぶらかす妖婦に、時に父上を思い出す少女のようになって、正気を失ってしまわれたのだ。
あの時予言されたように俺のことをまるで見えてないように扱うようになった。
不安で無意識に目の前の懐紙をもてあそんでいたようだ。
懐紙の端が丸まっていた。

「わたくしはあなたがまだ幼子だった時を知っている。あの頃もこうやって聖夜兄様が買ってきてくれた動物の形の焼き菓子を並べて遊んだ。」
茶を持つ手が震えた。
「なんだ。真昼様は何がほしくて俺を脅す?」
意を決して目の前の敵を見返した。
「脅してなど居ません。あなたと共に皆本を取り戻そうと思いまして。」
冷徹な笑顔。
「どういう意味だ?」
「真昼様は今の皆本をどうおもいます?」
挑戦的な笑顔。
「朝陽叔父上に支配された世界だ。」
納得した優しい笑顔で一つうなずく。
「そのとおり。そして今皆本が作っている薬は何だと思いますか?」
「俺は実務をしたことはない。」
「ご存じないですよね。実は皆本が作っている薬は他国に売られる薬ばかり。麗星国の国民にはいきわたらないものです。」
「なんだって?」
こいつは一体いくつ仮面を持ってどれが本物なんだ。
「朝陽兄上は聖夜兄上から引き継いで当主になりました。妻として奥様の小春様をもを引き継いだ。むしろそっちが目的だったといわれています。」
俺が首をかしげ真昼様はつづける。
「朝陽兄上は小春様のことが好きだったのです。朝陽兄上は当主となり自分から小春様を奪った聖夜兄上を許せなかった。おまけに麗星国の神殿からの仕事を引き受けなかた聖夜兄上に腹を立てた。民のための薬は金になりませんが、神殿に納める薬は金になります。皆本が潤すため、卜部家と共謀して疱瘡の事件をでっち上げ、仙湖に沈められた。」
「なんだって・・・!」
「聖夜兄上が疱瘡の研究をし、疱瘡に罹ったのは事実です。しかし皆本の医師が抑えられない症状ではなかったでしょう。あのころ疱瘡の特効薬は朝陽兄上と聖夜兄上によって試作されていたのですから。」
抑えられる症状であれば仙湖に沈められることなどなかったはず。
殴られたような衝撃が頭の中を駆け巡る。
なぜ。
どうしたら、そんなことができるんだろう。
母上を巡って争った結果?
だとしたら母上があまりに不憫である。
「朝陽殿が母上を父上から奪うことと俺が女に戻れないのは何の関係がある?」
「小春様の具合が悪いのはご存知ですか?」
「もちろんだ。父上が亡くなったころから病気がちで貞女が特別に薬を煎じて用意しているくらいだからな。」
「わたくしはその薬の処方を頼まれたことがあります。断りましたが、貞女はどこからかにあの薬を手に入れた。あの薬を継続して飲むと妊娠しない体になる危険な薬。おそらく朝陽兄上の血を残さないために常用されているのではないかと思います。朝陽兄上は焦っています。このまま御子が出来なければ前聖者の嫡男である朱夏様が聖者になるのが道理ですからね。」
毎日一緒に過ごし夜伽をしても御子ができないのはそういうことか。
母上もなんと無謀な・・・。お体が心配だ。
腹が煮えるように熱い。思わず口を噛み締めた。
「だから朝陽叔父上は俺の留学を許さず、配属も許さないのか。俺が力をつけてしまったら自分が追い落とされるものな。」
真昼様は大きく頷いた。