「朱夏様、昼餉ができましたよ…。鮎、お主なにをしておる!」
貞女は鮎を押しのけ、突き飛ばされた鮎は地面にひざをつき、見える世界が急に変わったことを驚くでもなく顔を伏せている。
「お、おい。貞女。何をしている」
鮎を起こそうと差し伸べた俺の手を貞女はピシャリと叩き下ろす。
「占部の庶子の分際で朱夏様に近づくのはもとより、お体に触るとはなんと無礼な!」
貞女は叫びに近い声を上げる。そしてその言葉に怒りを禁じ得ない
「貞女!鮎は悪くない」
俺はその場に立ち尽くして叫んだ。鮎は気にもとめていないようにその場でひざをつき頭を地面にすり付ける。
「申し訳ございません。私のような卑しい者が朱夏様の尊いお身体にふれてしまいました。ご容赦ください。」
そう言われて貞女の興奮も収まったのか俺の手を強引に引っ張る。
「朱夏様早くお召し替えを」
鮎の方を振り返るとまだ地面に手を着いている。心の中で鮎にわびを入れるが、貞女の力強い手に引かれ、そのまま研究部門の小部屋に通され、無言のままの貞女に着替えを渡される。
きれいに洗濯されたサラシ、ドテラ、上着、下衣。
「貞女、何をそんなに怖がる?相手は鮎だ。」
「朱夏様。この邸内のどこに敵がいるかわかりませぬ。私だけを信じてください。不用意な行動は避けなければ。」
そういうと貞女は俺のドテラ、その下につけていたサラシを剥ぎ取り暖かい手ぬぐい数枚で手足をふき、身体を丁寧にふく。
「この10年ですっかり大人の身体になられましたね」
優しいその口調、日々の水仕事で裂けた皮膚の感触が伝わってきた。貞女に改めてそう言われると恥ずかしいが、確かに自分でもが身体が大人になりつつあるのを感じていた。
着替えをすませると研究部門の者たちが昼餉に集まるこじんまりとした部屋に通される。
10数人の研究部門の者たちと上座にはもちろん綱兄様がいるが本当に人がいるのかというほどで、誰一人身じろぎせず、だれの息遣いも聞こえない。静寂という言葉がぴったりだった。
鮎は末席に座り、俺も隣に座るが鮎は俺を視界にいれない。
目の前には膳があり、米や雑穀を柔らかく炊いた粥、季節の山菜の汁物と川魚、漬け物が並ぶ。
「皆集まったな。ではいただこう」
綱兄様が俺を座ったのを見ていつもの作り笑いで言うと、皆本真昼様が俺をちらりと一瞥した。
真昼様は名字からわかるように皆本家であるが、俺のお祖父様が侍女の一人に生ませた、いわゆる庶子出身の方である。
つまり俺の父の腹違いの弟であり、俺のもう一人の叔父上となる。まだ20才になられたばかりでありながら彼の有能さは年上の研究部門の方たちを抜いているとききおよんでいる。それは俺の父上や朝陽叔父上が15歳になって4年間行っていた留学を10才から3年で終わらせ研究部門にすぐに配属されたということからも想像できた。
だれもが到達できないほどの天才でもあり、最近の皆本の出す新薬は彼の作ったものが大半だそうだ。
つまり、皆本を支えているのは真昼様といっても過言ではない。
そんな真昼様とは歳の近い親戚だというのになかなか話す機会が無い。それどころか無視されたりも日常茶飯事で、最近は話しかけることすら止めている。
侍女たちにも必要以上に話しかけることはないらしく
「鋼鉄の男」とあだ名されていた。
眼鏡をかけた涼やかな目元から朝陽叔父上のような冷徹さは感じられないが、冷静にこちらを値踏みしているようにみえた。
「綱兄様、朱夏兄様はいつ研究部門に配属されたのですか?」
真昼様が眼鏡を外して視線をこちらに向ける。 
その穏やかな目元だが視線は鋭い。 
みんなの質問を総代してしてきいたというところだろう。
たしかに皆本の嫡男が馬小屋掃除などしていたら、誰も近づかない。研究部門を円滑に動かしていくための質問だ。
茶番である。
しかし、許可した綱兄様もそれを望んでいるのだろう。
この質問にどのように受け答えをするのかも抜け目なく見ている。
仮面のような笑顔の下でほくそ笑んでおられるような顔で返事をした。
「まだ配属されてはおらぬ。朱夏様は学び舍の決まりを守らなかった故、研究部門の管理している馬小屋の掃除を1ヶ月してもらうつもりだ。」
綱兄様は汁物に手を伸ばして箸を付ける前に答え、片眉を動かして汁物をすする。
「左様でしたか。しかし、1カ月は長いですね。」
真昼様はおかしそうに声を出して笑っている。
親戚だろうが、年上だろうが、天才だろうが、馬鹿にされるのは嫌な性分だったが今は笑われるのは耐える立場だ。
今、俺は値踏みされているのだろう。
俺には価値があるとわからせてやる。それが研究部への試験なのかもしれない。
俺は笑って見せた。
「本日馬小屋の掃除は終わりました。午後は研究部門で雑用をお申し付けください」
俺は思いつきだったが、殊勝に畳に手をついて頭を下げると真昼様は笑いをこらえ、手を口元に持ってきて「失礼」と言って、喉を鳴らすと、楽しそうな笑顔を綱兄様にむけた。
「そうですね。仕事は山ほどありますから頼むことにしていいでしょうか」
綱兄様は汁物をすすって頷き、作り笑いなのかわからないが満面の笑みで真昼様はこちらを向く。
「では午後私のところへ。働きがよければ研究生にしてあげましょう。」
真昼様は眼鏡を膳においたまま正面に向き直ると昼餉に箸をつけはじめた。他の研究部門の面々も俺に目礼だけして次々と昼餉をかきこむ。
話の流れとは言え、面倒なことになった。研究部門の仕事が少しでもできるはうれしいが相手は真昼様、朝陽叔父上の弟だ。油断できない。
何のために自室によぶのだろう。
考えてもわからないが、考えずにはおれない。
「朱夏兄様、お召し上がりください。おなかが空いたままは健康に悪いですわ。」
隣から俺の緊張感を解くような漬け物をかじる音がする。
鮎がゆるゆると漬け物に手を伸ばしている。
先ほどのことなどまるでなかったかのようにおだやかなまなざしだった。
「あぁ、ありがとう。」
そう言ってその後は沈黙をつづけ、昼餉を半分ほど食べ進めた頃、周りも雑談に興じていることからたまらずに鮎に話しかけた。
男所帯のせいか鮎に話しかける者は皆無であることも気になった。
「鮎。先ほどはすまなかった。怪我はないか?」
俺の急な謝罪にも鮎はふわりとわらいかける。
「わたくしが軽率でした。朱夏兄様がわたくしの怪我のことなど心配するに及びません。」
そういってうつむく。見れば減っているのは漬け物ばかりで汁物や粥はへってない。細い体つきだし、きつい仕事でこれしか食べないなんて、体は持つのだろうか。
「いや、悪いのは俺だ。貞女は俺にしか止められなかった。悪かった。」
あやまると
「いいのです。」
と柔らかく答えた。
「朱夏様にはこれから・・・いいえ、なんでもございませんわ。」
鮎はそのうるんだ瞳で俺に笑いかけた。
「ならばよいが・・・。ほしいものがあれば何なりと申せ」
俺は鮎が言いかけた言葉に不安を感じながら昼餉に向かい箸を進めた。
「ほしいものは自分で手に入れますわ。」
空腹だった朱夏には鮎のつぶやいた言葉が聞こえなかった。

*****
昼餉を終え、言われた通り、鋼鉄の男、真昼様の部屋へ向かう。
研究部門全員が使用する研究室はあるが、研究部門に長く在籍し、功を積んだものや身分の高いものは自室が与えられる。庶子とはいえ皆本の名を持ち、有能な真昼様に自室が与えられているのは当然とも思えた。
「失礼します。」
緊張が声にでないように気をつける。真昼様の値踏みはまだ続いているだろうから。
「あぁ、朱夏兄様、待っていましたよ。」
扉を開けると小さな部屋の天井まである本棚が壁を埋め尽くしておりその本棚のすべてに高さをそろえられた書物が神経質に並んでいて圧倒される。書物の内容はは皆本の古典的な薬についてかかれたものや隣国の古の薬についてかかれたもの、遊牧民テグル族の民間療法まで多岐にわたる。真昼様は扉とは反対側の窓辺に置かれた机から声を発していた。俺を見つけて立ち上がり会釈する。作り笑いなのか、俺はまだ判断しかねた。
どんなに優しそうな顔でもあの朝陽叔父上の弟なのだと心が警報を鳴らす。
「頼み事とは何でしょうか?」
「朱夏兄様は学び舍でも優秀だと聞き及んでおりますので実験記録の検算をお願いします。あとは、そうだな。時間があれば検算結果をこんな風に表にして。できそうですか?」
机の上にいくつか几帳面に置かれた数十冊の実験帳の束の一部をはらりとめくり実験記録を見る。
研究部門の真昼様の実験だろうか。
量が多いのは気になるが俺はうなずいた。
計算処理能力が見たかったのか。俺は大きくうなずいた。計算に関しては自信がある。
きっとこの試験を突破して研究部門に入ってやる。
「承知です。俺はどこで作業したらいいですか?」
「ではこの机で。実験帳が邪魔でしたら床にでもおいて作業してください。疲れたら適当に休憩を取ってもらって構いません」
そういうと真昼様は机に戻って、おそらく俺が来る前と同じであろう体制に戻った。
俺は静かに作業を始めた。計算して帳面に記入していく作業を黙々と続ける。
途中何度か、研究部門の者たちが真昼様に質問紙に来て、真昼様がそれに答えるという場面に出くわした。
真昼様は非常に丁寧に質問に答え、質問者は安堵するように帰っていく。

俺は黙々と作業を続けていた。
その実験記録は美しかった。
字もきれいでであるとかそういうことではない。
目的と目的に沿った実験と結果。それが織りなす道筋に一片の曇りもない。
もしかしたら真昼様には実験結果が見えていたのではないかというほどであった。
もちろんうまくいっている実験だけではない。目的に否定的な結果がでた実験も見受けられたがそのすべては管理され真昼様の軌道修正によりすべて理論づけられる結果となり、最終的に裏付けとなっていた。
俺は研究部門への試験されているのだといった邪念も忘れ、実験に魅了されていた。
このままこの作業が終わってしまうのが寂しい。
そんな不思議な感情すらうまれはじめていた。