「あら、朝陽様。馬ですわ。」
母上が外に出ていらっしゃっているではないか!
父上が亡くなるまで何の障りもない方だったらしいが、父上が亡くなってから母上は塞ぎがちで、俺が物心つく頃には母上は部屋から出てこず、朝陽叔父上が見舞いをしている様子だったがいつしか正気を失われておられた。
たまにお会いしても俺の声が聞こえないかのように何もお返事してくださらない。
最近では、貞女に会うことを止められているため、遠くから眺めるだけで会いたい気持ちを紛らわせている。
そんな母上が外に、それも研究部門の馬小屋のこんなに近くにいらっしゃるなんて。
相変わらず栗色の髪の毛がふわりと揺れ、菫色の瞳はかがやき、透明感のある白い頬に花のしずくが落ちたような朱がさしてすっぴんだとも病気だともおもえない。
30過ぎとは到底思えない華やかさで少女のような花柄の着物がよくお似合いだった。
俺は飛び出して抱きつきたかったがもう一人、別の人物の声が聞こえ、自分を律した。低く落ち着いた声。
いや、においだけでわかる。朝陽叔父上はいつも奇妙な香を纏っているのでわかるのだ。
すらりと背が高く、派手ではないが高価であることが一目でわかる白いつやのある絹の着物を着こなしている。朝陽叔父上は母上より4歳年下だからまだ30に届かないが年齢不詳の整った顔立ちで見るものによっては冷たさを感じるだろうが、母上に向ける表情は溶けるように甘かった。
「小春が馬を見たいというから連れてきたよ。昔から小春はどんな動物にでも好かれていたよね。気位の高い馬なのに小春にこうべを垂れているよ。」
馬小屋から覗き見ると、俺が先ほど洗った馬が確かに母上にほほを摺り寄せている。確かにここの馬たちは気位が高く、初めて会う人間にあんなに慣れ親しむことなどない。母上もこの上なく嬉しそうに、馬と朝陽叔父上を見上げて笑っていた。
「こんな風な白い馬に乗ったあなたが朱夏を背に抱えて、王都からかけて帰ってきたことがあったわね。私はその時は栗毛色の馬に乗っていた。あのときも同じ日だったかしら。王都はちょうど春陽祭で白酒の花が町中に飾られてて美しかったわね。」
俺は母上の言葉を一つ残らず聞き逃すまいと目をつぶって耳を凝らした。
母上の言葉は俺の頭の中にまた美しい情景を映し出す。
きっと母上は父上を思い出して言ったのだろう。
叔父上は不満そうに眉を吊り上げ
「それは朱夏を背に抱えていたなら聖夜兄上だ。そんなつまらない思い出を捨てよ。小春は俺と一緒にいるんだから。」
そういって母上を抱きしめる。
母上は朝陽叔父上の言葉を理解できていないようだった。
「小春の部屋を白酒の花でうめつくしてあげるよ。」
腕の中で母上のうめくような小さな声が聞こえる。母上を罰するように強く抱きしめていて、母上が折れてしまいはしないか気が気ではない。
それに母上の美しい思い出が穢された気がした。朝陽叔父上が、つまらない、なんて決めることじゃないはずだ。腹の底から朝陽叔父上への怒りがふつふつとこみ上げ、俺は馬小屋の外に駆け出した。
「母上。父上の思い出を捨てないで。」
叔父上は突然現れた俺の声に驚いたようで母上を解放し、母上は朝陽叔父上の腕のなかに小さく収まっていた。
「・・・・」
「母上・・・」
やはり母上は何も答えてくださらない。叔父上の腕に収まった母上の菫色の瞳には何も映っていないように見えた。
「母上、朱夏がわかりませぬか?」
母上は追いすがるような俺の仕草と言葉で眉間にしわを寄せ顔をしかめる。
「・・・・・」
二の句が継げず、母上に差し出した手は行き場を失った。
「朱夏、いつからそこにいたんだい?それに・・お前すごい汗だな。上着を脱いだらどうだ?」
朝陽叔父上は突然出てきた俺に驚きはしたものの、俺のことを無視する母上にも驚くことなかった。それどころか美しく整った顔に薄ら笑いを浮かべて、母上の収まった手とは反対の手で手招きした。
その手には魔力があるのかと思うほど、心が無になって引き寄せられる。
「手伝ってやろう」と上着を結び留めた腰紐に手を伸ばす。
その手には抗いようもない。そんな雰囲気さえした。
「おやめください!」
屋敷の方から貞女の鬼気迫ったような大声が聞こえた。
その声で俺もはっと我に返るが、俺は叔父上の手中にあった。
「なぜだ?我が子が汗で濡れている。このままでは風邪をひくだろう。着物を脱がせるだけだ。」
朝陽叔父上が俺の腰に当てた手を止め、瞼を少し閉じて貞女を見た。
聖者としての威圧的な雰囲気をひしひしと感じたが、それに負ける貞女ではない。
「朱夏様は馬小屋の泥にまみれております。聖者と小春様のお着物が汚れてしまいます。」
貞女は履き物をはくのも忘れて屋敷から馬小屋の朱夏の腕をひき、朝陽叔父上との間に立ちはだかる。
貞女はこれでも侍女頭である。
2人の侍女を連れてあるく身分のものが足を汚してまで来てくれ、自分を守ろうとしてくれているのがわかった。
「貞女よ、おまえ何しているのかわかっているのか?」
今までにない低く、冷たい声色に背筋が凍る。相手が犬でも殺されることがわかるだろう。それほどの殺気だった。そして貞女が殺されるほどの何かをしたとも思えなかった。
朝陽叔父上が正気を失っている。
「わかっております。」
危機的な状況に覚悟を決めたように貞女が朝陽叔父上としわのより始めた目じりをあげて、朝陽叔父上と目を合わせる。その合間、それよりも早くとも遅くとも手遅れだった場面で母上が、朝陽、と叔父上を呼び捨てにした。
「朝陽、怖い顔になってるわ。もう、行きましょう。」
母上は叔父上のつりあがった目にそっと手を当てる。まるで少女が手負いの獣をてあてするように。
「馬はもう飽きたわ」
呼び捨てにされたことを怒り、むしろそれを合図にしたように朝陽叔父上の殺気も収まり、正気が戻ったような顔つきになった。
「・・小春がそういうならそうしよう。僕ももう馬は飽きた。」
2人は朱夏や貞女、他の侍女たちの存在を無視したように手を取り合ってその場から出て行った。
今までの殺気がまるで嘘だったような風が一陣ふいた。
「朱夏様ご無事で。よくご無事でした。」
先ほどの勢いが嘘のように貞女がその場に崩れ落ち、俺の腰に手を回した。目には涙がにじんでいる。
俺は貞女の手を反射的に握る。
そして反射的に口にした。
「あぁ、貞女も。」
実際無事ではなかった。母上に知らないと言われた心の痛みは寸鉄で胸を穿たれたような痛みを伴った。
「小春様は・・・…」続けようとした貞女の言葉を遮る。
「わかっている。いつものように正気では無かったのだろう。」
それが何を意味するのか朱夏にはよくわからずえぐれた心は今なお朱夏を蝕んでいた。しかし、貞女の心配する顔を見て正気をとりもどす。心配させてはならない。
「俺は平気だ。でも貞女は俺を守るようなことをするんじゃない。貞女は自分の身を守るんだ。」
貞女は恥じらうように笑い、俺の手を取って着物の汚れをはたいて立ち上がった。
「何をおっしゃいます。朱夏様を守るのがわたくしの役目でございますのに。」
「朝陽叔父上を侮ってはならん。母上を奪われ、貞女まで・・・そんなこと考えただけで恐ろしい。」
貞女は俺をふわりと抱きしめる。
「小春様はまだ奪われておりません。貞女も居なくなりません。まだかようにかわいらしい朱夏様を置いてどこに行くというのです?」
貞女は俺の頬を優しくなでる。いつの間にか出ていた涙を手ぬぐいで拭いてくれた。
侍女たちがみていることに気付いて改めて恥ずかしくなり貞女から体をはなす。
「ありがとう。俺は馬小屋掃除を最後まで仕上げる。おれはどうなるかわからんが1ヶ月はがんばらねばな。」
口の端をあげると貞女も頭下げる。
「はい、貞女は研究部門の昼餉を作りにきました。朱夏様の分も作ってお待ちしております。」
そう言って貞女は汚れた足袋を払い馬小屋から昼餉を作りにいった。
朱夏は貞女を見送って半刻ほどして掃除を終えた。
馬を馬小屋に入れ、馬のいた中庭の糞便をまた掃除し、馬掛け用の丈高の編み靴を整える。
このまま食堂にむかおうとおもったが、食堂の場所を知らないことにきづいた。
「さっき貞女に聞いておくべきだったな。」
どうすればいいか途方に暮れる。このまま屋敷に戻ってしまおうか、そんなことを考えていると
「朱夏兄様、どこへ行くの?」
甲高い鮎の声に振り返る。
そういえば、鮎は研究部門に配属されたんだったなと思った。みると薬草の束を両手に一杯抱えたそばから、鮎の顔と細くて小さな手が覗いている。まるで薬草が話しているみたいでわらえた。
「鮎はそんなに薬草を抱えてどこへいくんだ?」
「馬小屋へ。体調が悪い馬がいたから飼い葉に混ぜてあげようと思って」
「手伝うよ。さっきまで馬小屋の掃除してたんだ」
「え!なんで兄様が?」
本当に驚いているので、ことの顛末を話すと、鮎は「兄様らしい。」と笑っていた。それが薬草と話しているみたいで俺も笑えた。
2人で飼い葉に薬草を混ぜると鮎が食堂まで案内してくれるというのでお願いした。
「研究部門はどうだい?」
栗色の髪をきちんと結んだ鮎の髪の毛に草がついている。とってあげながらきいてしまった。聞いてから後悔した。
「まだ配属されて1日だから慣れるも慣れないもないわ。ただ言われた仕事をするだけよ。」
鮎は不安と期待が入り交じるような顔をしていたし、「そうだよな」と同意するようにこたえたものの、たった一日なのに大きく溝をあけられたような気持ちになってしまい、励ましていいのかわからなかった。
履き物を脱いで屋敷にあがり、取り留めのない話をしながら鮎と昼餉を食べに向かう。
本当は学び舍で一緒に学んだ者たちに会うのも気が引けたが、今更行かないという選択肢を選ぶとこれから顔があわせられなくなる、と思って行くことにした。
「それにしても朱夏様」
鮎は俺が靴を脱いだ時点で顔をしかめる。
「お顔と手足を洗った方がいいわ。なんだか、その、とても…」
鮎が言いよどんでいて気付く。
「あ、そんなに汚いか。少し待っていてくれ。」
そう言って上着を脱いでドテラすがたになり、軒先の甕の溜水を頭にかぶったり、手足を洗う。
「あー、気持ちいい。」
「もう、朱夏兄様。こんなところで着物を脱ぐなんて驚きます!」
「あ、あぁ。悪い、鮎」
「それにしても白く綺麗なお肌。小春様譲りかしら。」
鮎は俺のそばにより、言葉を失ったように肩にそっと手を乗せて俺の首にかかっている髪を触る。髪をひっつめ、先ほどの薬草の乾いた匂いが首筋から香る。おっとりとしたたれ目が俺に向けられているのをしり、鳥肌が立った。同じ14才なのになぜこんな色気が備わっているのだろう。不思議に思い、動けずにいると近づいてくる足音が聞こえた。
母上が外に出ていらっしゃっているではないか!
父上が亡くなるまで何の障りもない方だったらしいが、父上が亡くなってから母上は塞ぎがちで、俺が物心つく頃には母上は部屋から出てこず、朝陽叔父上が見舞いをしている様子だったがいつしか正気を失われておられた。
たまにお会いしても俺の声が聞こえないかのように何もお返事してくださらない。
最近では、貞女に会うことを止められているため、遠くから眺めるだけで会いたい気持ちを紛らわせている。
そんな母上が外に、それも研究部門の馬小屋のこんなに近くにいらっしゃるなんて。
相変わらず栗色の髪の毛がふわりと揺れ、菫色の瞳はかがやき、透明感のある白い頬に花のしずくが落ちたような朱がさしてすっぴんだとも病気だともおもえない。
30過ぎとは到底思えない華やかさで少女のような花柄の着物がよくお似合いだった。
俺は飛び出して抱きつきたかったがもう一人、別の人物の声が聞こえ、自分を律した。低く落ち着いた声。
いや、においだけでわかる。朝陽叔父上はいつも奇妙な香を纏っているのでわかるのだ。
すらりと背が高く、派手ではないが高価であることが一目でわかる白いつやのある絹の着物を着こなしている。朝陽叔父上は母上より4歳年下だからまだ30に届かないが年齢不詳の整った顔立ちで見るものによっては冷たさを感じるだろうが、母上に向ける表情は溶けるように甘かった。
「小春が馬を見たいというから連れてきたよ。昔から小春はどんな動物にでも好かれていたよね。気位の高い馬なのに小春にこうべを垂れているよ。」
馬小屋から覗き見ると、俺が先ほど洗った馬が確かに母上にほほを摺り寄せている。確かにここの馬たちは気位が高く、初めて会う人間にあんなに慣れ親しむことなどない。母上もこの上なく嬉しそうに、馬と朝陽叔父上を見上げて笑っていた。
「こんな風な白い馬に乗ったあなたが朱夏を背に抱えて、王都からかけて帰ってきたことがあったわね。私はその時は栗毛色の馬に乗っていた。あのときも同じ日だったかしら。王都はちょうど春陽祭で白酒の花が町中に飾られてて美しかったわね。」
俺は母上の言葉を一つ残らず聞き逃すまいと目をつぶって耳を凝らした。
母上の言葉は俺の頭の中にまた美しい情景を映し出す。
きっと母上は父上を思い出して言ったのだろう。
叔父上は不満そうに眉を吊り上げ
「それは朱夏を背に抱えていたなら聖夜兄上だ。そんなつまらない思い出を捨てよ。小春は俺と一緒にいるんだから。」
そういって母上を抱きしめる。
母上は朝陽叔父上の言葉を理解できていないようだった。
「小春の部屋を白酒の花でうめつくしてあげるよ。」
腕の中で母上のうめくような小さな声が聞こえる。母上を罰するように強く抱きしめていて、母上が折れてしまいはしないか気が気ではない。
それに母上の美しい思い出が穢された気がした。朝陽叔父上が、つまらない、なんて決めることじゃないはずだ。腹の底から朝陽叔父上への怒りがふつふつとこみ上げ、俺は馬小屋の外に駆け出した。
「母上。父上の思い出を捨てないで。」
叔父上は突然現れた俺の声に驚いたようで母上を解放し、母上は朝陽叔父上の腕のなかに小さく収まっていた。
「・・・・」
「母上・・・」
やはり母上は何も答えてくださらない。叔父上の腕に収まった母上の菫色の瞳には何も映っていないように見えた。
「母上、朱夏がわかりませぬか?」
母上は追いすがるような俺の仕草と言葉で眉間にしわを寄せ顔をしかめる。
「・・・・・」
二の句が継げず、母上に差し出した手は行き場を失った。
「朱夏、いつからそこにいたんだい?それに・・お前すごい汗だな。上着を脱いだらどうだ?」
朝陽叔父上は突然出てきた俺に驚きはしたものの、俺のことを無視する母上にも驚くことなかった。それどころか美しく整った顔に薄ら笑いを浮かべて、母上の収まった手とは反対の手で手招きした。
その手には魔力があるのかと思うほど、心が無になって引き寄せられる。
「手伝ってやろう」と上着を結び留めた腰紐に手を伸ばす。
その手には抗いようもない。そんな雰囲気さえした。
「おやめください!」
屋敷の方から貞女の鬼気迫ったような大声が聞こえた。
その声で俺もはっと我に返るが、俺は叔父上の手中にあった。
「なぜだ?我が子が汗で濡れている。このままでは風邪をひくだろう。着物を脱がせるだけだ。」
朝陽叔父上が俺の腰に当てた手を止め、瞼を少し閉じて貞女を見た。
聖者としての威圧的な雰囲気をひしひしと感じたが、それに負ける貞女ではない。
「朱夏様は馬小屋の泥にまみれております。聖者と小春様のお着物が汚れてしまいます。」
貞女は履き物をはくのも忘れて屋敷から馬小屋の朱夏の腕をひき、朝陽叔父上との間に立ちはだかる。
貞女はこれでも侍女頭である。
2人の侍女を連れてあるく身分のものが足を汚してまで来てくれ、自分を守ろうとしてくれているのがわかった。
「貞女よ、おまえ何しているのかわかっているのか?」
今までにない低く、冷たい声色に背筋が凍る。相手が犬でも殺されることがわかるだろう。それほどの殺気だった。そして貞女が殺されるほどの何かをしたとも思えなかった。
朝陽叔父上が正気を失っている。
「わかっております。」
危機的な状況に覚悟を決めたように貞女が朝陽叔父上としわのより始めた目じりをあげて、朝陽叔父上と目を合わせる。その合間、それよりも早くとも遅くとも手遅れだった場面で母上が、朝陽、と叔父上を呼び捨てにした。
「朝陽、怖い顔になってるわ。もう、行きましょう。」
母上は叔父上のつりあがった目にそっと手を当てる。まるで少女が手負いの獣をてあてするように。
「馬はもう飽きたわ」
呼び捨てにされたことを怒り、むしろそれを合図にしたように朝陽叔父上の殺気も収まり、正気が戻ったような顔つきになった。
「・・小春がそういうならそうしよう。僕ももう馬は飽きた。」
2人は朱夏や貞女、他の侍女たちの存在を無視したように手を取り合ってその場から出て行った。
今までの殺気がまるで嘘だったような風が一陣ふいた。
「朱夏様ご無事で。よくご無事でした。」
先ほどの勢いが嘘のように貞女がその場に崩れ落ち、俺の腰に手を回した。目には涙がにじんでいる。
俺は貞女の手を反射的に握る。
そして反射的に口にした。
「あぁ、貞女も。」
実際無事ではなかった。母上に知らないと言われた心の痛みは寸鉄で胸を穿たれたような痛みを伴った。
「小春様は・・・…」続けようとした貞女の言葉を遮る。
「わかっている。いつものように正気では無かったのだろう。」
それが何を意味するのか朱夏にはよくわからずえぐれた心は今なお朱夏を蝕んでいた。しかし、貞女の心配する顔を見て正気をとりもどす。心配させてはならない。
「俺は平気だ。でも貞女は俺を守るようなことをするんじゃない。貞女は自分の身を守るんだ。」
貞女は恥じらうように笑い、俺の手を取って着物の汚れをはたいて立ち上がった。
「何をおっしゃいます。朱夏様を守るのがわたくしの役目でございますのに。」
「朝陽叔父上を侮ってはならん。母上を奪われ、貞女まで・・・そんなこと考えただけで恐ろしい。」
貞女は俺をふわりと抱きしめる。
「小春様はまだ奪われておりません。貞女も居なくなりません。まだかようにかわいらしい朱夏様を置いてどこに行くというのです?」
貞女は俺の頬を優しくなでる。いつの間にか出ていた涙を手ぬぐいで拭いてくれた。
侍女たちがみていることに気付いて改めて恥ずかしくなり貞女から体をはなす。
「ありがとう。俺は馬小屋掃除を最後まで仕上げる。おれはどうなるかわからんが1ヶ月はがんばらねばな。」
口の端をあげると貞女も頭下げる。
「はい、貞女は研究部門の昼餉を作りにきました。朱夏様の分も作ってお待ちしております。」
そう言って貞女は汚れた足袋を払い馬小屋から昼餉を作りにいった。
朱夏は貞女を見送って半刻ほどして掃除を終えた。
馬を馬小屋に入れ、馬のいた中庭の糞便をまた掃除し、馬掛け用の丈高の編み靴を整える。
このまま食堂にむかおうとおもったが、食堂の場所を知らないことにきづいた。
「さっき貞女に聞いておくべきだったな。」
どうすればいいか途方に暮れる。このまま屋敷に戻ってしまおうか、そんなことを考えていると
「朱夏兄様、どこへ行くの?」
甲高い鮎の声に振り返る。
そういえば、鮎は研究部門に配属されたんだったなと思った。みると薬草の束を両手に一杯抱えたそばから、鮎の顔と細くて小さな手が覗いている。まるで薬草が話しているみたいでわらえた。
「鮎はそんなに薬草を抱えてどこへいくんだ?」
「馬小屋へ。体調が悪い馬がいたから飼い葉に混ぜてあげようと思って」
「手伝うよ。さっきまで馬小屋の掃除してたんだ」
「え!なんで兄様が?」
本当に驚いているので、ことの顛末を話すと、鮎は「兄様らしい。」と笑っていた。それが薬草と話しているみたいで俺も笑えた。
2人で飼い葉に薬草を混ぜると鮎が食堂まで案内してくれるというのでお願いした。
「研究部門はどうだい?」
栗色の髪をきちんと結んだ鮎の髪の毛に草がついている。とってあげながらきいてしまった。聞いてから後悔した。
「まだ配属されて1日だから慣れるも慣れないもないわ。ただ言われた仕事をするだけよ。」
鮎は不安と期待が入り交じるような顔をしていたし、「そうだよな」と同意するようにこたえたものの、たった一日なのに大きく溝をあけられたような気持ちになってしまい、励ましていいのかわからなかった。
履き物を脱いで屋敷にあがり、取り留めのない話をしながら鮎と昼餉を食べに向かう。
本当は学び舍で一緒に学んだ者たちに会うのも気が引けたが、今更行かないという選択肢を選ぶとこれから顔があわせられなくなる、と思って行くことにした。
「それにしても朱夏様」
鮎は俺が靴を脱いだ時点で顔をしかめる。
「お顔と手足を洗った方がいいわ。なんだか、その、とても…」
鮎が言いよどんでいて気付く。
「あ、そんなに汚いか。少し待っていてくれ。」
そう言って上着を脱いでドテラすがたになり、軒先の甕の溜水を頭にかぶったり、手足を洗う。
「あー、気持ちいい。」
「もう、朱夏兄様。こんなところで着物を脱ぐなんて驚きます!」
「あ、あぁ。悪い、鮎」
「それにしても白く綺麗なお肌。小春様譲りかしら。」
鮎は俺のそばにより、言葉を失ったように肩にそっと手を乗せて俺の首にかかっている髪を触る。髪をひっつめ、先ほどの薬草の乾いた匂いが首筋から香る。おっとりとしたたれ目が俺に向けられているのをしり、鳥肌が立った。同じ14才なのになぜこんな色気が備わっているのだろう。不思議に思い、動けずにいると近づいてくる足音が聞こえた。