寝間着のまま街を歩く私は、目立ちすぎるほど目立っていた。

無理矢理引き抜いた点滴の痕から、血が止まらない。

手首を押さえて、泣きそうになりながら、私は家を目指した。


寒かった。

悲しかった。


強い風が吹く度に、倒れそうになる。

心臓がドキドキして、背中の傷もズキズキと痛んで。


ばかみたいだった。

そう、私は本当にばかだ。


麻生先生も、困っているだろう。

こんな患者、見捨ててしまうのかな。

そうだよね。

先生は毎日、たくさんの患者さんを診ていて。

本当に忙しい。

だから、勝手に去って行った私なんかのこと、いちいち気にしないよね。


北風の吹きすさぶ街を、どうにか歩き続けて。

私は、家に帰ってきた。

日付の感覚がないけれど、あの日から2週間くらいは経っているはずだ。

私の家は、当たり前のように真っ暗だった。


インターフォンを鳴らしてみる。

誰も出てこない。

当たり前なのに、どこかで期待している自分がいて。

心がしんしんと冷えていった。


ポケットに入っていた合鍵を、震える手で鍵穴に差し込む。

ガチャリ、と音を立てて、扉が開いた。


中は、凄惨な事件現場かと思いきや、警察の捜査は済んだようで、すべてクリーニングされていた。

あの日見た光景が、幻だったのではないかと思えるほどに。


玄関には、両親の靴が揃えて置いてある。

電気のスイッチを押すと、廊下が明るく照らされて、少しだけほっとした。



「ただいま。」



小さな声で言ってみる。

もちろん、何も返ってこない。


中に足を踏み入れて、あの日のままになっているテーブルを眺めて。

出しっぱなしのケーキと料理が、手つかずのままに異臭を放っているのを見て。


床に崩れ落ちた。


浅い呼吸を繰り返す。

視界がぐるぐると回って、私は床に仰向けになった。


呼吸はどんどん速くなる。

息が上手くできない。

苦しくて、苦しくて。

私は初めて、誰かに助けを求めたいと思った。



その時。

インターフォンが鳴った。

ドンドン、とドアを叩く音。



「西條さん!いますか!」



麻生先生―――



返事をしようにも、呼吸が苦しくて、声の出しようがない。


先生、先生。

私はここにいるよ。

ここに―――


その時、パリン、とガラスの割れる音がして。

しなやかな猫のように、先生が窓から滑り込んでくるのが見えた。



「西條さん!!!」



先生は私に駆け寄って、一瞬のためらいもなく私を腕に抱いた。



「大丈夫ですか?どこが痛い?どこが苦しいですか?」



どこだろう。

何でこんなに、苦しいんだろう。


先生の温もりを感じて、初めて涙が零れ落ちた。

苦しくて、息が出来なくて、切なくて、悲しくて―――


肉体的な痛みと精神的な痛みが、同時に私を襲っていた。



「発作を起こしかけていますね。それに、過呼吸も。」



先生が、大きな手でゆっくりと背中をさすってくれる。



「ゆっくり呼吸をしますよ。吸って、吐いて。」



先生の声に合わせて呼吸をしようと思うけれど、焦ってちっとも上手くいかない。



「焦らなくていいですよ。大丈夫だから。」



ハンカチが口に当てられて、苦しくて涙が滲む。

でも、次第に呼吸が落ち着いてきた。



「よし、上手ですよ。その調子でゆっくり息をして。」



先生の穏やかな声が、私を安心させる。

呼吸が楽になってくると、私は先生の胸に身を委ねて、温もりを感じようとした。



「呼吸は落ち着きましたね。他に、どこか痛いところはありますか?」



呼吸が落ち着くと、心臓のドキドキも、背中の傷の痛みも少し和らいだ。

代わりに、先生の温もりが、言い表しようのない切なさを、私に感じさせていたんだ。


そっと、胸のあたりを指差した。



「……たすけ、て。」



先生は、私の言いたいことを分かってくれた。

初めて助けを求めた私を、先生は、両腕でしっかりと受け止めて。



「こんなに冷えて。寒かったでしょう?」



優しい声に、涙が止まらない。



「先生、」


「はい。」


「……死んじゃったんですね。」


「西條さん……。」


「ほんとに、ほんとに、……。」



先生の腕に、ぎゅっと力が入った。



「いやだあ……。そんなのやだよ、先生。」


「悲しいですね。」


「私だけ生きてるなんて、やだ……。」


「西條さんは何も悪くありませんよ。可哀想に。」



可哀想な子、と思われるのがあんなに嫌だったのに。

先生に「可哀想に」と言われると、妙にストンと胸に落ちた。

子どものように、先生の胸で泣きながら。



「さあ、病院に帰りますよ。」


「やだ……。」


「嫌じゃないです。なるべくそばにいてあげますから。」



先生に後ろから抱えられるようにして、車に運ばれた。

後部座席に横にならせて、ブランケットを掛けてくれる。



「あったかい……。」


「病院につくまで、眠っていていいですよ。」


「先生、」


「はい。」


「どうして来てくれたんですか?」


「西條さんが、助けて、って泣いてるような気がしたので。」



先生の優しい声に、いつの間にか眠くなって。

私は久しぶりに、深い眠りに落ちた。