この間、私に逃げられた叔母が、またやってきた。



「莉那ちゃん。今日は逃げないで。あなたのサインが必要なの。」



分かっている。

この人が、あの家を売り払うために、実の娘である私のサインが欲しいんだと。

でも、絶対に嫌だ。

嫌だと言っているのに。



「叔母さん。何度も申しましたが、私は……、」


「お葬式の手配をしたのは誰だと思ってるの!葬式費用、いくらかかるかあなた知ってるの?」



ほら、それが本音だ。



「お葬式の費用は、私が働くようになってから全額お返しします!だから、少し待ってください!」


「困ります。あなたが働くようになってから?そんなの、何年先になるのよ!大体、そんな体じゃ、高校だって通えないじゃないの!」


「それなら、お葬式費用は両親の遺産の中から払いますから、」


「あなたのご両親の遺産は、私が預かります。そのお金であなたを養育する。そう言ってるじゃない!いい?あなたはまだ、高校生なの!」


「結構です!もう高校生です。お金の管理くらい、自分でできます!」


「いいから大人しく、全部差し出しなさいよ!」



その時、ドアが開いた。

麻生先生が、無表情で入ってくる。



「これから検査になりますので、お引き取り願えますか?」


「ちょっと待ちなさいよ。私はこの子と大事な話が、」


「僕の患者をあまり追い詰めないでください。」



無表情のまま、麻生先生が言う。

さすがの叔母も、黙り込んだ。



「西條さん、行きますよ。」



麻生先生に促されて、病室を出る。


俯きながらとぼとぼと歩く。

高校生であることの無力さが、悔しかった。



「西條さん、こっち。」



麻生先生は、中庭につながる窓を開けた。

私の背を押して、中庭に出る。

久しぶりの緑と、空の青がまぶしい。



「そこにベンチがあります。ちょっと座って待っていてください。」



言われた通りに、ベンチに座る。

外の爽やかな空気に触れて、尖った心が丸くなっていくようだ。


ふいに、頬に温かいものが押し当てられて、私は驚く。



「どうぞ。」



手に取ると、それは小さなペットボトルの紅茶だった。



「あったかい。」


「そうですね。」



よく見ると、無糖、と書いてある。

ちゃんと体に配慮しているのが、お医者さんらしい。



「ありがとうございます。」


「いいえ。」



先生も、隣に腰掛けた。

手には、缶コーヒーが握られている。



「コーヒー。」


「ええ。こっちの方がよかったんですか?」


「いえ……。」



なんだか恥ずかしくなって顔をそむけると、先生は優しく笑った。



「一口だけあげます。」


「え?」



先生は、缶を開けて私に手渡してくれた。

戸惑いながらも、一口飲む。



「甘い。」


「ふっ。でしょう?」



返すと、気にする様子もなく、先生は缶に口をつけた。

私ばかりが気にしているようで、なんだか恥ずかしくなる。



「しばらく、面会謝絶にしましょうか。」


「え?」


「西條さんが苦しむ姿は、見たくありませんから。」



やっぱり、聞かれてたんだ。

うつむくと、先生はそっと私の頭に手を置いた。



「僕は、あなたの親戚の方の悪口を言うわけにはいきません。でも……。放っておけませんでした。」


「先生……。」


「差し出がましいことをして、すみません。」


「いえ……。」



助けられた。

私はまた、先生に助けられたんだよ。




「もう、あの人に会いたくない。」


「はい。」


「会いたくないよ、先生。」


「……しばらく会わなくていいようにしてあげましょうね。」



よしよし、と背中を撫でられる。

私は心からほっとする。


束の間でもいい。

こうして先生に優しくされると、私は生きていてよかったと思える。

だから、もう誰にも邪魔されたくない。



「さて、検査なんて言ったはいいですが、どこで時間をつぶしましょうか。」



先生がそんなことを言うから、私は少しだけ笑った。