星空と君の手 【Ansyalシリーズ 託実編】



「雪貴は留学中だし、宝珠姉さんも今は仕事で海外。
 んで、唯香ちゃんだったらって連絡したんだ。

 百花、絵は完成したの?」

「うん。完成して、少し前にお祖父ちゃんに手渡したとこ」

「俺にお披露目する前に?」

「託実には当日、会場で見て欲しいから」


そうやって言葉にすると、
唯香は私は託実の顔をかわるがわる見つめる。


「ふっ、二人とも……喧嘩は嫌だからね」

そんなことを言いながらも、
唯香はマイペース。


「喧嘩なんてしないから。
 安心してよ。

 それより託実、唯香を連れてきた理由は?」

「この間さ、夜想曲の楽譜見て、
 ラストレターっていっただろ」

「うん。言ったよ」

「だからさ、理佳が百花を思って作り続けてきた曲を
 唯ちゃんに演奏してほしいって思ったんだ。

 出来れば、理佳が演奏し続けていたピアノでさ。

 裕真兄さんには許可貰った。

 今から、唯ちゃん神前悧羅の大学病院のエントランスにある
 ピアノを弾いて貰えないか?」


突然の託実の言葉に、唯香もびっくりしてるみたいだった。


「別にいいけど……大学病院とは思わなかった」

「そうだよ。

 なんもこの時期に大学病院じゃなくても、
 隣のスタジオとかだったらダメなの?」


12月の下旬。
隆雪さんの命日が間近のクリスマスの週。


「だから演奏してほしいんだ。

 理佳が演奏したかっただろう、
 百花がこっそりとお忍びで通い続けてたあの場所で」


託実があの頃の私の行動を知ってたかのように、
お姉ちゃんにこっそり会いに行っていた時間を紡ぐ。


「わかった。
 託実さん、そう言うことだったら私その場所で演奏するよ。

 多分、理佳さんって言う百花のお姉さんと、託実さんからの百花へのクリスマスプレゼントってことかな。
 ついでに私が演奏することで、私からのプレゼントにもなるかな?」


唯香はそう言うと、託実から真新しい封筒を託されて、
封筒の中身をチラリと覗くと、鞄の中へと突っ込んだ。


マンションから託実の車で、病院のエントランスへと移動すると
すでにピアノ演奏の告知がされてあったために、
何人かの人たちがピアノの周辺に集まっていた。


唯香は鞄をピアノの近くに置くと、
封筒の中身を譜面台に広げていく。



準備を終えると、唯香は一度ピアノから立ち上がって
丁寧にお辞儀をすると、再びピアノの鍵盤へと向き直った。



ゆっくりと演奏が始まって行くエントランス。


唯香は流石、ピアノ講師と言うか……唯香自身が実力があるからなのかは
さておき、ミスすることもなくなんなく演奏していく。



「百花、今唯香ちゃんに渡している曲は、
 昔、理佳が演奏した学院祭で、百花の為に奏でた一曲。

 虹の希望って言う名前なんだ」




虹の希望?

この曲がお姉ちゃんが私の為に作ってくれた曲?




すると、少し年配の男の人が
静かに俯いていた顔を上げて『懐かしいなー』っと声を漏らした。



懐かしい?


不思議に思っていると、その男性の近くに居た、やっぱり年配のご婦人も
相槌を打つ。




「お嬢さんははじめてかい?

 この曲は、何年前だったかな。
 昔、ここで元気な時だけだったけど演奏してくれる
 リトルピアニストの女の子が居てね。

 小さい頃から何度も何度も、その子の演奏を通院の合間に聞いて
 元気を貰ってたよ。

 確か……りかちゃんって呼ばれていたな」



そのおばさんが教えてくれた、りかちゃんは……紛れもなく
満永理佳。

私のお姉ちゃん。



「小さなピアニストは、やがて綺麗な女の子へと成長していったけど
 姿を見なくなってしまった。

 ずっと、りかちゃんの演奏に励まされていたから、
 機械の演奏になった途端に、味気なくてね。

 でも今日は久しぶりに、あの頃を思い出せるわ。

 あの子も、素敵な演奏をするのね。

しかも……理佳ちゃんが演奏していたあの曲を、
 もう一度聴けるなんて、思いもしなかったわ」





そうやって、ピアノの周辺に集まってくれている
お姉ちゃんを知る人たちは、口々に言葉にした。


唯香の演奏が終わったら、
沢山の拍手がエントランス中を包み込んでいく。




「有難うございました。

 この曲は、親友のお姉さんである当時、この場所で
 ピアノを奏で続けた、アマチュアピアニスト。

 満永理佳さんが、大切な妹の為に作曲された、虹の希望と名付けられた作品です。
 今日、この場で演奏させて頂くことが出来まして光栄でした。

 理佳さんの想いが、百花へ……そして託実さんをはじめ、
 この場所に集まってくださった全ての皆さまの心に届きましたら幸いです。

 続いての曲は、同じく理佳さんの作品より『希望の光』お届けさせて頂きます」



唯香はそう言うと、再び椅子に座って静かに演奏を始めた。




お姉ちゃんが私の為に作ってくれていたという、
その曲は何処までも優しい音色だった。




託実が譜面台から、
その楽譜を手にして私の傍へと近づいてくる。
 


「百花、見てみるといいよ」



手を出されたお姉ちゃんの手書きの譜面。

その隅っこには、小さな字で




Dear:百花

Sincerely





ただそれだけ、綴られていた。






嬉しくて涙が溢れだしたその時、
ピアノの音色に、いつの間にかヴァイオリンの音色が重なって行く。




「裕兄さん、帰ってきたんだ」


託実が呟いた先、唯香のピアノにあわせるように演奏しているのは、
裕先生。



「理佳の時もやってたらしいよ。
 一緒に演奏するの」


そう言いながら、託実は私を支えるように
後ろ手をまわして、じっと演奏風景を見つめ続けていた。





お姉ちゃん、私……
今ようやく、お姉ちゃんの本当のメッセージ受け取ったよ。


託実や……皆がいなければ、
きっと手にすることが出来ないまま終わってた
お姉ちゃんとの時間。





お姉ちゃん、沢山の宝物を有難う。
ちゃんと受け取ったよ。




心の中、唯香と裕先生の演奏に身を委ねながら
私は対話を続けていた。





俺と百花が夫婦になって、
初めての年明けを迎えた一月。

俺たちは、Ansyalのメンバーといつものレッスン室で
練習しながら、その瞬間を迎えた。


雪貴が居ない時間、不安そうだった唯香ちゃんも
少しずつ今は安定しているみたいで、
百花の隣で笑顔を見せてくれてる。


後一年……。

来年のこの日を迎えられたら、
雪貴も高校卒業が間近となる。

そうすれば……隆雪から託されたこのAnsyalを
もう一度、光の下へ。



そんな俺が描くAnsyalのビジョンを明確にイメージしながら、
静かに祈願する年明け。


そして今年は、
俺にとっても百花にとっても家族が増える。


賑やかな一年が始まる予感がしていた。



実家や伊舎堂・亀城の両関係者の元へと
年始の挨拶回りを過ごし、
喜多川の家や、満永の家へも帰省する。



年始の慌ただしさから、
少し解放された一月中旬。



俺はその日、スタジオでの仕事を早めに切り上げて
とある場所へと出掛けた。



出掛けたその場所は入院生活の間からずっと百花が向き合い続けて完成させた
絵画をみたいから。



『星空と君の手』。



Ansyalの曲名でもあり、理佳の旅立ちの日に演奏したその思い出のタイトルが
作品名として名づけられたその絵を少しでも早く見たくて。




会場近くのパーキングに車を停めた俺は、
そのまま花屋で花束を作って貰うと、そのまま会場へと向かった。


その場所に展覧会開催中は百花も手伝いに顔を出すことになっていた。




花束を抱えたまま、その会場となる櫻柳のさくらホールへと足を踏み入れる。

一階のエントランスには、それぞれの催し会場に案内しやすいようにスタッフが立って
ホール内の来客に声をかけていた。



「いらっしゃいませ。
 本日はどちらの催しにお越しでしょうか?」

「櫻柳会長主催の展覧会へ」

「有難うございます。
 本日の展覧会は初日の為、只今の時間は招待制となっておりますが
 招待チケットはお持ちでしょうか?」

「御心配には及びません。
 何階でしょうか?」

「右手側奥のエレベーターより最上階へとお願いいたします」


そのまま誘導スタッフと別れて、俺は指示されたエレベーターから最上階を目指す。

ガラス張りのエレベーター。
外の景色を覗きながら、エレベーターが浮遊していく。

次第に加速されたスピードが、緩やかになっていくとスーっと静かに止まった感覚が体に伝わってくる。


到着音がチンとなり、静かにエレベーターのドアが開くと
丁寧にお辞儀されたスーツ姿のスタッフによって迎え入れられる。


「いらっしゃいませ。
 恐れ入りますが、受付での手続きをお願いします」


ジャケットの内ポケットから、喜多川会長より預かっていた
招待状を手を出すと、すぐにスタッフが奥へと消えていく。


暫くして姿を見せたのは、百花と喜多川会長、
そして画廊のスタッフでもある相本さんだった。



「おぉ、託実くん。
 仕事が忙しい中、悪かったな」

「いえっ。
 招待チケット有難うございました。
 百花が渡してくれると思っていたので、前日まで貰えなくて焦りました」


そうやって会話をしていると、
俺の隣では百花が『仕事だと思ったから』っと声にはせずに口の形を動かす。



仕事だと思ったからって、確かに仕事だったけど
それくらいは俺も調整するよ。


百花の絵が見たかったのは、
俺の本心なんだから。



「百花、体調の方は?」



百花の姿を見た途端に、小さな声で百花に話す。




「大丈夫。
 この子が私の大切な日に暴れるわけないでしょ。

 だって……」

「理佳の生まれ変わりだから……だろ」


百花が続けようとしていた言葉をそのまま、
俺が続けたら、目の前の百花はぷーっと頬を膨らませる。


そうやって拗ねたような素振りを見せるのも、
今の俺には可愛らしいと思ってしまう。



「はいっ。
 プレゼント」



そう言いながら、手にしていた花束を百花へと手渡すと
百花はびっくりしたように、花束を抱きしめてゆっくりと相本さんへと預けた。



「託実くん、中を案内しようか」



喜多川会長の言葉に、俺はゆっくりとお辞儀をしながら
会場の中を観覧していく。


展覧会の会場となっている部屋には、
床には重厚な雰囲気を演出する絨毯が敷き詰められていて、
壁に飾られた絵画。

その絵画を引き立たせるように演出された
アート照明の柔らかな光。


そんな暖かい雰囲気を感じながら、
ゆっくりと展示されている絵画を一枚一枚と楽しんだ。


そして辿り着いた、最後の一枚。




星空と君の手

亀城百花 作





絵画の下には、百花の名前と作品名がシンプルに紹介されているものの
その絵画を引き立たす天井から降り注ぐ照明の優しい光は、
天国へと扉にも通じるような、そんな世界が広がっていた。



キャンパス一面に広がっていく幾重にも重ねて仕上げられた星空。
その星空へと手を伸ばす存在。


その掌に向けて、空から舞い落ちる天使の羽。



その絵が伝える想いが、
俺と隆雪や理佳、百花と理佳、百花と家族。


そんな形のない宝物へと手を伸ばしていく
そんな思いが、その一筆一筆に閉じ込められているのがわかった。




「託実……伝わる……かな?」



百花が小さく問う言葉に、
俺は力強く頷く。





伝わる……。






俺たちが今までずっと抱え続けてきた時間の全てが、
想いが……この中には、ちゃんと刻まれてる。





「百花、約束通り新作のジャケットに使わせて貰うよ」

「うん。

私もこれは最初から、そのつもり」




そう言うと、百花は俺の目の前で嬉しそうに微笑んだ。




その後も暫く、
俺たちはその絵の前から動けなかった。





今日が招待状客オンリーの日だからこそ、
こうしてゆっくりと、その絵の前に留まり続けることが出来る。






星空と君の手。


この曲を光の下へ送り出すとき、
そのカップリングには、理佳が遺した夜想曲のAnsyalアレンジとセットにしたいと
望みながら、俺の脳内は絵画から広がる曲のインスピレーションでいっぱいだった。




一月に展覧会が終わり、
私はお腹の中の赤ちゃんの成長を守りながら
臨月の六月を迎えようとしていた。

託実は、時間を見つけては私を気遣ってくれる。

そんな生活は変わらないけど、
そんな託実の優しさだけには甘えていたくない。


ちゃんと強くなりたいと思うし、
託実にも、プロデューサーとしてAnsyalのメンバーとして
無理なく責任ある行動をしてほしい。


その為には……ちゃんと私が、家庭を守れる存在になりたい。
そんな風に、日に日に強く思う様になってた。



その日、託実は前日からのプロデュース作業が終わらなくて
帰宅できず。

私もそれでいいと思ってた。



だけど……明け方近くに、陣痛と思われる痛みが襲い始めた。


何時でも出掛けられるように、お泊りセットだけは先に作っていたので
それを玄関前に置きながら、暫く様子をみる。


家族が起きそうな時間まで様子を見た後、
誰かに連絡しようと携帯電話を握る。

その瞬間、ベストタイミングで液晶には託実の名が表示される。



「おはよう。
 百花、今から帰るから。

 朝ご飯、頼んでもいいかな?」


そう言って話を切りだす託実。



「ごめん……託実。
 今から、お母さんか唯香か捕まえて病院に行くね」

「病院?」

「少し前から……陣痛かなって言う痛みが来てるから」

「少し前って百花。
 もう少し俺を頼れよ。
 仕事中でもいいから」



電話の向こう、託実は少し怒ったように声を荒げた。



「ごめん……。
 でも、託実の仕事を邪魔したくないの。

 託実の荷物にはなりたくないから」


それは私の本音。


託実にとってのプラス効果にはなりたいけど、
託実にとってのマイナスの女にはなりたくない。

荷物には絶対になりたくない。



「百花に気を使わせるなんて俺もまだまだってことだな。
 
 とりあえず唯香ちゃんや、満永の家、喜多川の家に連絡するなら連絡していいけど
 病院には俺が連れて行く。

 もうマンションの近くまで帰ってるから。

 後、兄さんたちにも連絡入れておくから」 

「うん。

 託実……いつもごめん」

「百花、そんなの気にしなくていんだよ。
 後、出来ればごめんじゃなくて、有難うの方が嬉しいかな。

 そういう時、『ごめん』って言うのが口癖なのは
 理佳も百花も一緒なんだな」


そう言いながら託実は笑う。



昔、託実がお姉ちゃんから初めて貰った最初で最後のバレンタインチョコ。


そのチョコにお姉ちゃんが書いたチョコ文字のメッセージも、
大きなカタカナ文字で、ゴメンネって綴られていたこと。

そしてその下、申し訳程度に読めるか読めないかの小さな文字で綴られたアリガトの四文字。


私との会話から、そんなプレゼントに込められていたメッセージを思い出したっと
託実は、私の知らないお姉ちゃんとの時間を教えてくれた。



託実と電話で繋がってる。

そう思うだけで、一人でいた時ほど不安はなくて
やっぱり……託実の優しさに包まれたくなってる私自身に気が付く。




カチャリ。


何時の間にか玄関ドアをあける音が聴こえて、
電話越しではなく、ダイレクトに託実の声が聞こえた。





「ただいま。行こうか」




そう言って託実は私を支えるように
手を添えながら荷物をもってマンションを出ていく。

次に帰ってくる時は、ちゃんと家族が増えてるね。

そんなことを思いながら私は地下に停められている託実の車へと向かった。



託実の車に乗り込んで暫くすると、
また少し収まっていた痛みが増して来る。


そんな私の状態を気遣いながら、託実は車を運転しながら何処かに連絡していく。


すぐに病院の関係者出入り口に車が到着すると、
そこにはすでに連絡して駆けつけてくれていた、薫子先生たちが私を迎え入れてくれた。



「託実、百花ちゃんのことはちゃんと任せて
 貴方はやるべきことをしなさい。

 出産のタイミングになったら、ちゃんと連絡してあげるわよ」

「知ってるよ。
 じゃ、百花後で行くから。

 母さん、頼んだから」


託実と離れて私が向かったのは、
入院していた時と同じ、伊舎堂の関係者専用VIP ROOM。


その部屋には何時、
出産になってもいいように準備だけは整えられていた。


産婦人科の主治医をしてくれてた担当の先生をはじめ、
何時もの先生たちが顔を出しては、私を気遣って仕事へと戻って行く。


私の方は言えば、出産に備えての準備が進んでいく。


出産と言えば痛みがつきものだとお母さんたちからは言われてきていたけど、
ここの先生たちは別で、痛みを緩和できるならその方が母体へも赤ちゃんへも影響は少ないからと
無痛分娩と言われるもので、行われることになった。

まだ感覚は長いけれど最初の陣痛を感じて病院に来た私は、
点滴をつけられて、そのままベッド上に腰を丸めて出すように座らされる。


「百花ちゃん、何も心配しなくていいから。リラックスして。
 今から痛みを緩和するように、背中の方から注射して麻酔薬をいれるカテーテルの準備を
 していくからね」

産婦人科の先生の隣、姿を見せて声をかけるのは裕先生と裕真先生。

そのまま私は、背中の皮膚に痛み止めの注射をして貰って、
無痛分娩をするために必要な麻酔薬をコントロールする
カテーテルをつけて貰う。

すぐに薬によって痛みがコントロールされてきたのか、
私は陣痛と言う名の痛みから解放された。


「痛かったら我慢せずに声をかけるのよ」

何度ともなく処置中から、薫子先生に言われ続ける私。

カテーテルを付けた後は、
痛いかどうかを問われるたびに、痛い時は素直に伝えると
薬の量を追加して貰う。

痛みを感じない時は『大丈夫』だと伝える。

そんなやりとりをしながら、
無痛分娩と言われる、痛みのない出産を体験していた。


陣痛の間、痛すぎて大変だったと教えてくれていた出産経験者の友達の言葉が嘘みたいに
私は与えられた部屋で、穏やかに笑いながら時間を過ごせてる。



やがて、お母さんとお父さんと、お祖父ちゃんを連れて託実が病室へと姿を見せる。





「百花、学校に居る唯香ちゃんから電話だよ」



そう言って託実の携帯を、私の方に手渡す。




「百花、大丈夫?
 もうぐ百花がお母さんなんてね。

 学校が終わったらすぐに行くから、
 元気な子産むんだよ」

「有難う唯香。
 今は陣痛起きてるけど、先生たちのおかげで痛みもなくて笑えてるよ。
 散々、友達に脅されてたから嘘みたいだよ」

「まぁ、痛みはない方がいいよねー。
 幾ら、生命の神秘に繋がるものかもしれないけど……。

 さて、私も今から授業に行くよ」

「うん。
 じゃ、唯香も頑張って」



そのまま電話を切った後も、
その瞬間の時間まで、私は家族の皆と普通に会話を弾ませながら時間を過ごした。



「んじゃ、百花ちゃん。
 そろそろ、本格的に分娩準備に入ろうか」


主治医の先生のその一言で、スタッフさんたちが慌ただしく動き出す。


一度、病室に居た皆を外に出る形になって、
分娩準備が整えられた後に、再び入室が許された。




入ってきたのは、薫子先生とお母さんと託実。



「百花が分娩前に笑顔で笑ってるなんてね。

 今はこんな分娩方法もあるのね。
 お母さんの時は痛くて、それどころじゃなかったんだけど」

「この方が、産道も柔らかくて赤ちゃんの為にもいいのよ。
 百花ちゃんも、痛みがない方が呼吸もやりやすいじゃない。

 託実は百花ちゃんの頭元ね。
 音澄【おと】さんは、百花ちゃんの右側をお願いできるかしら」


薫子先生が、お母さんの名前である『音澄』を口にする。
久しぶりに聴いたなー。

お母さんを名前で呼んでる人。


そんなことを思いながら、三人をゆっくりと見渡す。