閑静な住宅街にある、高層マンション──。


 一昨年、少年の父親が「会社に近いから」と言う理由でここへ越してきた。


 まだ小学校に入学して何ヶ月もしないうちに、転校を余儀なくされたのである。


 せっかく新しい環境に慣れてきたのに……。


 だが、父親の言うことは絶対。


 「引っ越したくない」なんて、口が裂けても言えなかった。


 少年はそびえ立つ高層マンションを見上げ、太陽の光に目を細めた。


 今は、ここが僕の家。


 お母さんが出迎えてくれるなら、どこだっていいさ……。


 エレベーターで、十五階まで上がっていく。


 扉が開くと同時に、少年はまたしても駆け出した。


 長い廊下の突き当たりのドアの前で立ち止まり、慣れた手つきで鍵を差し込む。



「ただいまー、お母さん!」


 明るい声を弾ませながら、少年は薄暗い廊下を走った。


 返事は返ってこない。


 寝室か、リビングか。


 少年は一瞬躊躇ったが、寝室の扉を静かにノックした。



「お母さん、いる?」


 少年は静かに扉を開けて、顔を覗かせた。


 ベッドに腰をかけた母親の華奢な後ろ姿が見える。



「あっ……お帰り。真」


 母親はハッとしたように顔を上げると、いつものように優しい微笑みを浮かべた。


 手に何か持っているようだが、身体の陰に隠れてよく見えない。


 そんなことより、と少年はポケットに入れたグミを差し出した。



「はい、これ。お母さんの好きなグミ、買ってきたよ」


「あら……。また貰っちゃっていいの? 嬉しいわ、ありがとう」


 子供騙しのお菓子なのに喜んでくれて、少年は気恥ずかしさと嬉しさを覚える。


 黄色のカーディガンを羽織った病み上がりの母親は、誰よりも美しく見えた。


 色白の肌と愛らしい童顔のせいか、三十と言う年齢よりはるかに若々しい。



「あ。あとね、これを学校で書いてきたんだよ!」


 少年はそう言って、ランドセルから二つに折った画用紙を取り出す。


 そこには、小学三年生の子供が書いたとは思えぬほど、少女のような面影を残した美しい女性の絵が描かれていた。


 『お母さん、いつもありがとう』と言うメッセージを添えて。