「ラベンダー荘を出発する前よりも、だいぶすっきりしたはずだが?」

「まあね」

 信也は康孝の言葉にうなずく。

「信也。俺には大切なものがたくさんある。守りたいものがたくさん。信也も、大切なものは一つじゃないだろ?」

 視線を上げた信也に、向こうで座る三人の姿が見えた。

 イチジクの木の前で、かおりと優子がポツポツとなにかしゃべっている。

 アキラは汗をぬぐいながら、背の高い木々を見上げている。

「―――」

 もう二度と手に入らない、無くしてしまった大切な者。

 でもそんな悲しみに関係なく、俺の人生は続いてる。

 恋人を失ってから、ずっと言えなかった言葉が喉のすぐ下まで上がってきている。 

(みさと、ごめん。俺、みさとと話し合った人生とは違う人生を、新しい人生を、過ごしてもいいかな?)

「信也?」

「うん、一つじゃない」

 そう言ってしまうと、信也の脳裏に、両親の顔や友人たちの顔が次々に浮かんできた。

(ほんとだ。大切な者は一つじゃないや)

 帰ったら久しぶりに連絡してみるか。

「康孝さん、俺、かっこわるいとこ、ばっかり見せた」

「まあな。でも、乗り越えるまで放り出さなかったお前はえらい」

 康孝が信也の背中をとん、と叩く。

「そろそろ出発するから、かおりちゃんの荷物もってやれ。何も言わないがそろそろ身体が限界なはずだ。こんなとこで倒れられたら、救急車も入ってこれないから大変なことになるぞ」

 信也は慌てて立ち上がると、休憩中のかおりのところへ歩き出す。

 これで少し、肩の荷が下りた。

 それにしても、信也じゃないが、イチジクのこの甘い香りは、どうしても昔の女を思い出すな。

 康孝がそんなことを考えていると、信也が途中一度振り返って言った。

「俺、康孝さんのこと尊敬してるよ」

 あまりにも、さわやかに発せられた信也の言葉に、康孝は不意打ちをくらう。

 その様子を見て、信也は一瞬勝ち誇った表情を浮かべた。

「あなどれんやつめ」

 康孝はリュックを背負いながら「よいしょ」と立ち上がる。

 イチジクの甘酸っぱい香りが、それに合わせてゆっくりと動いた。