(わかってるんでしょ? ねえ。ねぇったら)
(うるさい。わかってるよ! どうせ僕はあの人くらいしか相談できる人が居ないんだよ……)
(わーい! はやくおはなししようよ!)

 だが、いったいこの状況をどう説明したらいいんだ……。僕は幸村さんと清水センセのことを寺岡さんに説明することを考えただけで途方に暮れた。あの二人のことを説明しなくても話がわかればいいんだけど。出来るのかな……
 小さい裕ははしゃいで走り回っている。わーいわーい! わーいわーい! はやくはやくー! はやくおでんわしようよー! なにしてるのー? それを聞きながら僕はようやくパジャマ替わりのスウェットの上下を着た。はやくはやくー! おでんわまだー? わかったわかったって。さて、携帯はどこだ? 僕は携帯を探した。だが、部屋の中にもカバンの中にもどこにも携帯がない。さっきと同じ動線を辿った僕は、うーんと考えてはたと思い当たった。服の中だな。バスルームに行く。脱衣所に幸村さんに剥かれたままの抜け殻のような僕の服が散乱していた。ジャケットのポケットを探ると硬いものが指に触った。あったあった。脱衣所の壁にもたれて携帯を開いた。21:27と壁紙に時間が表示されている。こんな時間だったのかと驚く。いったい何時間寝ていたんだろう?
 途中、脱水気味の身体にキッチンで水を供給した。ベッドまで帰って来ても、絶え間ない小さい裕の狂ったようなはしゃぐ声が、とまどう猶予もない状況をわかりやすく表していた。そのうち子供の声でもなくなってきた。夜霧の森の奥からおんおん響くトロールのような野太い低い声が耳の中に響いている。何を言っているのかさえよくわからない。ああ、わかったわかった。あの時と同じやつだ。有無を言わせない狂気の暴力が耳を塞いでも頭の中でわんわん鳴り響く。お前を頭から喰ってやるとか言ってるあれだ。わかったよ。わかったから!

 久々に、本当に久々に寺岡さんの電話番号を携帯の電話帳から引っ張りだした。自分から掛けたことは大学に入学してから一度もない。たまに生存確認のような電話を掛けてくる。決して小島さんからではない、寺岡さんからの人を食ったようなからかい半分の電話。ごくまれに寺岡さんが「声聞かせてあげるね」とか言いながら小島さんに替わることもある。最後はいつだったっけ? ちょうど、今の法医学教室に転職して、幸村さんが僕に執着するようになった青酸カリ殺人事件の頃だった気がする。幸村さんのことを寺岡さんに話した気がする。それとも小島さんにだっけ? あとは、小島くんは元気にしてるよ、私とも幸せに暮らしてるから、もう隆は返してやんないからね、ざまぁみろ。というノロケに似せた小島さんの生存報告をちゃんと入れてくる。それで僕もこっそり安心して、けんもほろろに電話を切る。大した用事じゃないんでしょ? とか言って。もう、あなた達に興味なんかないですという姿勢の表明だ。