「そう言う意味であの本は内容は僕にとっては最高ではなかったが、撮影や本の装丁としては良い出来だった…あの『Suicidium cadavere』は」

 ドクター清水は僕に向かって楽しげに言った。僕は急に寒気がした。嫌な予感に急き立てられるように、僕は思わず彼に尋ねた。

「先生も…持ってるんですか?」
「ああ、もちろんさ。だってあれはAさんがロシアのオークションで落札したんだから。君の元カレはAさんの上得意さんだ。僕の作った写真集も買ってくれてる…」

 Aさんが、佳彦の本屋。

(僕の好きそうな本が入荷すると連絡を入れてくれる…君に出会って、その本屋の気持ちがちょっとわかった気がするよ)

 話の途中から、平衡感覚が変になっていた。佳彦の言葉が不意に甦った。見えない場所にしまいこんで忘れ去ろうとしていた忌まわしい呪いの書が、埃を立てて前触れもなく棚から落ちてきた。僕の頭を目掛けて。

「…しかもあれは5冊しか仕入れていない。そのうちの2冊をあの人と僕が持ってる。あの写真集は通販のカタログには掲載されなかった。ほんとにそういう趣味の上得意さんにしか告知されなくてさ。Aさんから個別に営業された人は6人いたけど、一冊3万円でも、1ヶ月以内に全部売れちゃったって。モノはそのあとすぐ絶版ってことらしいから、マニアの間では結構高い本になってる…」

 誰も知らないはずの秘密が記憶の底から引き上げられてくるこの異常な状況に僕は必死に耐えていた。黙りこくった僕にドクター清水は構わず上機嫌で話し続けていた。この話が本当ならば、面倒なことに、つまりこの家のどこかに『Suicidium cadavere』があるという可能性が高い、ということも意味していた。それだけでも気が遠くなりそうだった。

「…でも僕はそれならピーター・ウィトキンの写真集の方が好きだね。絵画的なアングルといい、シュールな表現の裏打ちを果たしているクラシカルな隠喩やプロットも、やっぱり彼の美意識の方が僕には共感するものが多い。彼は蒐集家ではなく芸術家だ。でも僕の嗜癖は彼の趣味とも完全に重なるものじゃない。僕の趣味を完全に満たすコンテンツはこの世界の中ではとても少なくてね」

 思わせぶりに彼は話を切って僕をチラッと見た。

「だって僕は女性の屍体には全く興味がないんだ」

 そう言うと彼はいきなり腰を上げ、ソファの僕の隣りに座った。僕には一切触れずに、でもものすごい近さで僕に囁いた。

「だから自分を満足させる作品は自分で作るしかないんだ」

 吐息の掛かる距離で彼は小首をかしげて微笑み、そしてスッと身体を引いた。僕は固まったまま呆然としていた。約束通り身体には触られなかったのに、僕はそれ以上の侵害された感覚を受けた。予想は覆され、彼はロザリア・ロンバルドのファンには成り得ないことがたった今わかった。

「はい、これでプロローグは終わり。少し呆然としてるかな…でも聞いて良かったでしょ。それにこの話がないと次に行けない。ではお待ちかねの本編を始めようか。ちょっと刺激が強いかも…覚悟してね」

 彼は応接テーブルの下のオープン棚からリモコンを3つ取り出した。僕の座っているソファの前の壁際にはなぜか大きな薄型テレビがあった。ストーブからパチッと薪の爆ぜる音がした。