ああ、この人も世界の縁から落ちそうな場所にいるのか…と僕は初めて不確かなドクター清水という人間の中の、ゆらぎのない部分を見つけたような気がした。彼の“見えなさ”の原因が見えたようにも思えた。

「そう…ですか」
「うん。どうしようもなく、逃れられないくらい、好き」

 彼はどっちだろう。僕のように機能をなくしたもの自体が好きなのか、佳彦のように、壊すのが好きなのか。それとも人の屍体だけが好きなのか。

「小さい頃から虫の死骸、蛙や猫や鳩の死骸、そんなものを集めてた。生物の死骸にしか興味はない。壊れた傘なんかには興味ない」

 どちらにも似ていないのかも知れない…と僕はそれを聞いて思った。壊れた傘、か。僕と佳彦の最初の接点だ。そのエピソードを聞いたのかな。あれは帰る途中で暴風でおちょこになって一瞬で骨がバランバランになった。その壊れっぷりが見事で、あれはしばらく僕の部屋に置いてあった。そのうち母親に捨てられたけど。

「でも、生き物の死骸はすぐに腐敗するんだ…」

 ドクター清水はため息をついた。ため息の意味がよくわからなかった。

「すべての過程がエントロピーの増大なんですよ。それが自然です。屍体もまた」
「いいや。僕はいやだ」

 彼は首をゆっくり横に振ると、苦々しげに呟いた。僕は驚いた。

「すべてがすみずみまで隈なく死に絶えていく過程を…なぜ拒否されるのでしょうか」
「僕は嫌だ。あの、死後の、一瞬の美しさが奪われていくなんて、僕には耐え難い。小野小町の九相図なんてクソ喰らえだ」
「そんな…まさか先生は骸骨の美しさまで否定するんですか?」
「いや、いや断じて! 骨格は別だ。何のために僕が放射線科を選んだと思うんだい? 骨格は美しい。曖昧さがなくて、アーキテクチャの機能美がそこにある。パルテノン神殿のようにね」
「もしかして…有機的な…つまり腐敗が苦手なんですね。人間としての形状が崩れていくあの不可逆的な変化が」
「かもね。僕の美意識は洗練されていて趣のある古典的な美学に裏打ちされたものなんだと思う。それで言うとミイラはギリギリのラインなんだ…いや…」

 それはそう言う趣味の人にありがちなテンプレの不自然さと理想だった。僕には多少の共感しか出来ない。例えばロザリア・ロンバルドのエンバーミング(屍体防腐処理)について僕がかつて興味を持ったのは、その生成過程がある時まで謎だったからという理由が大きく、屍体の少女の美しさを愛でるというより、その謎が今になって解明され、その方法が非常に繊細で、ミイラと違い内臓や脳に至るまで完璧に残されていた、というその時代に似合わぬハイテクさに驚き、そこに焦点が当たっていた。

 そもそも屍体を生かそうとする生者の執着には僕はあまり興味が持てない。それでも屍体の話題やニュースは一般的な世間では貴重で僕を惹きつける。だがきっと彼はロザリアのファンに違いなかった。