「そんなに反応するんだ…あの人って言っただけで。妬けるなぁ」

 互いの額が付きそうなほどの至近距離でドクター清水が囁いた。

「わかりません…教えて下さい。誰なんですか!?」
「わかってるんでしょ? それともそんなに候補者が多いわけ?」

 いつの間にか振り払った彼の腕が僕の背中に回されている。だが僕にはもうそんなことどうでもよかった。なぜ、なぜドクター清水は知っている…なぜ、佳彦のことを?

「なんで…だれがそんなこと…僕にはわからないです」
「忘れたふりするの…じゃあ、ヒント。『Suicidium cadavere』」

 わかっていた。そうだよ。その人しかいない。ヒントなんか要らない話だった。しかし僕からその名前を言うわけにはいかない。

「あぁ……そうですか」
「茶番だね」
「…お知り合い…ですか…?」
「正確には、知り合いの知り合い。でも1度だけ話したことがある…嫌な人だった。でも恩人…感謝してもし足りない。だけど僕はあの人を許さない」

 そう言うと僕の背中に回されたドクター清水の指に力が籠もった。それを聞いて僕は驚いた。将にそれは僕が佳彦に抱いてる気持ちと同じだったから。殺してくれなかった憎い人、でも僕の未来を予言した恩人、この人が僕の今の出発点。感謝してる。でも僕に寄生虫のような生の熱を殖えつけた許せない人…

「僕も…そうです…そのまんまの…そのまんまの気持ちです」

 まさかこの人も、10代の時に佳彦に犯されたのだろうか…僕のように首を絞められて。1度だけ話したというその時に?

「もしかして…清水先生も…彼に…」
「いいや」
「じゃあ…なんで…?」

 ドクター清水はフッと微笑んだ。

「聞きたい…? 裕くん」

 しまった、と後悔したが遅かった。これを聞かないでスルーできるような精神状態に今から立て直すすべがない。

「……聞かせてくれるんですか?」
「うちに来てくれたら」

 犯される。咄嗟にそう思った。今までこの状況でそうされなかった試しはない。行きません、と言えばそれで済むのだろうか。だがこんな郊外に連れだされて、いま車から放り出されて、帰宅するにも道はわからないし、歩いて帰ったとしても車に乗っていた時間から見て、道を知ってたとしても少なくとも2〜3時間は歩くだろう。だが、たとえ迷ったとして4時間でも5時間でも歩いて帰ればいいだけだ。もし、彼が僕をおとなしく帰してくれたら。

 もし帰してくれなかったら、これは彼を監禁とか脅迫とかで罪に問えるのだろうか? 確か、移動の自由を妨げることは基本的に罪になるのではなかったか?
 黙りこんでそれに答えない僕に、ドクター清水は僕を抱きしめていた腕をほどき、真顔でこう言った。

「なにもしませんよ…岡本先生。これ以上僕からは、なにも…」