「…ありがとうございます」

 椅子に腰掛けてパソコンに向かっている僕の背後からさっきより落ち着いたドクター清水の声が聞こえた。作業を見に来たのだろうか。

「あ、岡本先生、髪の毛に糸くずが付いてますよ。取りますから動かないで下さいね」
「え…あ…はい」

 プリンタが作動し始めた。印字の音が聞こえてくる。ドクター清水の手が僕の後ろ髪に触れている。

「へぇ、サラサラですね…岡本先生の髪」
「はあ」
「シャンプーってなに使ってます?」
「トニックシャンプーですが」
「冬でも?」
「回答はいま印刷してるトリセツに書いてあります」
「えぇ? そうなんですか…はい、糸くず取れました。ゴミ箱…ここに捨てますね」
「すみません」
「へぇ、こんなの作ってあるんですかぁ。岡本先生ってマメなんですね」

 僕の両肩にドクター清水の手が置かれ、背後から僕の肩越しに画面を覗き込んでいるようだった。声はだいぶ最初の印象寄りに戻ってはいる。そのすぐ後にプリンターが仕事を終えた。彼の手に構わず僕は立ち上がった。ドクター清水の手が僕から離れた。

「印刷出来ました」
「すみません」

 古いプリンターのラックまでトリセツを取りに行く。低い排紙トレーから印刷物を屈んで拾い、振り向くと真後ろすれすれにドクター清水が立っていた。距離がなくて驚いた。

「わ」
「これ? じゃ、ありがたく頂きますね」
「あ…あぁ、ええ…」
「へぇ、これだったのかぁ。佐伯君の言ってたのって」

 彼はそう言いながらトリセツを手に取ると、立ったまますぐにそれを読み始めた。僕はドクター清水を置いて、パソコンに戻り、フォルダを閉じ、そして電源を落とした。ドクター清水は立ったまま無言で熱心にトリセツを読んでくれている。僕は応接ソファに戻った。

「そろそろ閉めて帰りますが、なにかまだ検討するべき事案は他にありますか?」

 少し間があって、ドクター清水は急にこちらを向いた。やはり間は変なままだ。

「すいません! だいぶ遅くなってしまいました。楽しくてつい長居しちゃって」

 楽しい? どこが楽しかったのかよくわからない。

「あの、折角ですからこれからご飯食べに行きませんか? 僕、おなかすいちゃった。これからお時間あります?」

 面倒くさい大人の付き合いを申し込まれ、僕は暗澹とした気分になった。