低くてとぎれとぎれで、まるで別人のような声…そしてドクター清水はなにかに激しくショックを受けているようだった。なにそれ。なんでそうなるの? ぐったりとソファの背もたれに身体を埋めて、ドクター清水は放心したように僕の後ろの壁を見つめているようだった。その反応は僕のまったくの予想外のもので、僕の思考は再び混沌の中に戻っていった。

 特殊感覚については面倒なんでそんなに詳しいことを誰にも彼にも言ってはいない。今までの職場スタッフには表面に見えている「熱いものが苦手、猫舌」とか「大きい音に過敏」とか、もしくは「味音痴」とか言って済ませている。ドクター清水が知らなくても当たり前で、なんの不思議もない。逆に知りすぎているのが不可解なのに。すると、放心のドクター清水が口を開いた。

「それ…いつ気づいたんですか?」
「は?」
「ですから…感覚の特殊性っていうの」
「ああ、たしか中学…いや、高校生でしたか」
「そうですか…そのころなんですね…知らないわけだ」

 ふと僕は、佐伯陸に渡した岡本裕取扱説明書のことを思い出した。

「佐伯君に僕の取説見せてもらわなかったんですか?」
「トリセツ?」
「僕の取扱説明書です。人と違うのを説明すると非常に長くなって…お互い面倒なんで、職場のコミュニケーションを円滑にするために作りました。皆さん僕にはたいがい困惑されるんで。予め僕の注意点を箇条書きに…」
「えっ? そんなものあるんですか? なんだ。佐伯君まったく教えてくれなかった。なんでかな。忘れてたのかな…そんな大事なもの。先に見せてくれたら良いじゃないですか。ヒドイなぁ。岡本先生の重要な情報、自分は知ってて僕には教えないって…ヒドイなぁ」

 その言い方は、明らかにちょっと変だった。言い方だけじゃなくて言ってることも変だった。僕の取説を見せる見せないなど、そんなの佐伯陸の勝手で、見せないだけで2回も「ヒドイ」と言われなければならないかがまったくもって不明だった。明るくて穏やかな話し方はさっきから消え失せ、抑揚のないイラッとした低い声に変わっていた。初めのドクター清水とまったく印象が違う。もしや二重人格者なのかと疑ってしまうほどの変わりようである。

「あの…読んでもらえるなら差し上げますよ。もらって頂いたほうがこちらも助かります。印刷するのでちょっと待ってて下さい」

 そんなに欲しいんならこちらも願ったりだ、と、返事も待たず席を立ってデスクのパソコンを立ち上げた。

「いいんですか!?」
「ええ」

 背中から嬉しそうなドクター清水の声が聞こえてきた。さっきの地の底から響くような呪詛ではまったくない、いきなり嬉々とした明るさに変わっている。その落差がものすごい違和感を醸し出していた。それには構わないふりで、久々に岡本文書館謹製のフォルダを開き、作成した文書を開く。佐伯陸以来だ。佐伯陸も大概だったが、ドクター清水もオカシイ。オカシイ人間にあげる書類じゃないんだが。

 トリセツを印刷し終えたら、明らかにオカシクなってるドクター清水をここから追い返そうと、作業をしながら僕は画策していた。