前の大学の法医学教室では、僕は変人としてその地位を揺るぎないものにしていた。それがどうしたことだろう? この堺教授の下では、同じように、いやそれ以上に自分の変人さを隠さないでやってきていてもこのざまだ。なぜか期待されてしまう程度に社会生活を送れるという錯覚を周囲にもたらしている。なんでこんなことになってしまったんだろうか…

 堺教授も菅平さんも、常識人に見えて、実はかなりオカシイ人なのかも知れない。そうだ…片鱗は随所に伺える。そうでなければ前の職場とのこのギャップは有り得ない。その状況を強化しているのが、幸村警部補という難敵を懐柔しているという、周囲の誤認識によるものだ。それは菅平さんですらそんなことを言うために時間を使うという気合の入りようで、鈴木さんに至っては、そのことで僕はちょっとしたヒーロー扱いだ。いや、ヒーローという扱いの、体のいい人身御供である。間違いない。

 鈴木さんは普通の人だから、僕のような変人で社会性の低い職場のお荷物だからこそ、安心して人身御供として差し出せるという感じは伝わってくる。偶然職場のお荷物が幸村さんという暴風雨に気に入られて選ばれた。人並みの人間が生贄なら鈴木さんも心が痛むだろうが、僕なら気を遣わなくていい。それはまぁある意味世間並みで僕には逆にわかりやすい。これは『世界の生贄の歴史』という中学生の頃読んだ本で得た知識も参考になっている。

 例えば古代のギリシャのアテナイでは、二人のホームレスを1年間公費で養ったあと、収穫祭の日にイチジクの枝で二人を鞭打ちながら街中を引き回すことで、全アテナイ市民の罪穢れをその者達になすりつけた。そして最後に町外れの高い崖の上から突き落として殺すという贖罪の風習が存在したという。僕は公費で養われているし、前任の前橋教授と彼を諌めなかったスタッフ全員の罪を背負い、幸村さんという高い崖から突き落とされている感は否めない。ではあの警察署タイヤ倉庫での狂気のイニシエーションが収穫祭の鞭打ちに相当するのかも知れない。

 しかし、堺教授と菅平さんはどうやら僕を人身御供とは見ていない。それはなぜか? 堺教授は例の“サカイのナイフ”の件で、僕に類似するようなとんでもなくマニアックなところを垣間見せてくれたので、普段はその牙を矯めているというか、分厚い羊を人にわからないようにかぶっている風なのは、ようやく伺い知れたが、菅平さんに関しては、今まで彼女のことをそこまで気に留めていなかったといえる。興味がなかったと言えばいつものことだが、その姿は猫をカブるというより、気配を消していたというか、鳴りを潜めていたというのが正しい表現だということを、先日の彼女のスピーチでようやく知ったのだ。