そこで問題がある。僕はなぜそうだったんだろう? 母親が言った「死んで生まれてきた」という仮死分娩のせいだろうか? でも前にも思ったが、仮死分娩で死んで、生き返ってからもその死んでいる意識がずっと続いているなんていうケースはあるんだろうか? そして、脳に問題はない、と母親は医師の検査を信頼していたが、僕の脳は、寺岡さんの家で実験をして、かなり人と違う使い方をしているという確信めいた事実がある。もしかして脳には「生きている感覚を司る感覚野」というものがあるのではないだろうか? それが僕は機能していないとしたら? あの日、寺岡さんの分析方法を観察して、事実、反証、仮説を繰り返して結論を絞り込んでいく術を目の当たりにした。僕もそれに倣った。

 生きている感覚というのは一体なんだろうか。逆に死んでいる感覚というのはあるのか? 死んでいる感覚…と考えると、その言葉はそれ自体で矛盾していることに気づく。なぜなら感覚器官は生きているものの機能だからだ。死んでしまったら感覚は無くなる。だから僕は死んでいることを知らなかったのではないか。では、生きている感覚とはなんだろう。死んでいるときは感覚がなかった。無いわけじゃないのだろうが、曖昧で意識していなかった。だが意識はあった。意識とはなんなのだろうか。

 それとも、生きている感覚という特別なものはなくて、感覚そのものが『生きている』という概念と結びつき、それを認識させているのだとしたら…

 死んでいるという無意識の認識がいつ生まれたのか。それは僕にはわからなかった。だが、生き返されたと感じた時(将に“感じた”のだが)、それは自殺の写真集によって自分の中に熱が生じた時だ。しかしそれまでの僕は死んでいたことを知らずに死んでいた。それを断固としていままで皆に“自分が死んでいたのに”と訴え続けてきた。しかしよくよく考えてみれば、どこをどう頑張っても、普通に生活し、食事を摂り脳が考え、音を聴き景色や本を見ている僕の身体は、《生きている》。

 …え? なにそれ?
 僕は…なんでそれを認めてる…?

 僕は自分の認識に不意打ちを食らった。 いままで頑なに拒否してきた“生きている”と言う事実を、僕はなぜいまここで肯定しているのかと。