そういう意味では…と僕の思考はとりとめもなく浮遊していった。以前の僕は箱の中の猫のように死んでて生きてた。観測者がいないってことだったというのだろうか? 初めて僕をはっきりと観測したのが佳彦だったってことなのかな。つまり箱を初めて開けた観測者…

「ねぇねぇ、裕、寺岡先生の好きそうなものとか知ってる?」
「え…あ…こっ…ああ、なんだろ。お蕎麦とか? お蕎麦屋さんで、そば粉のこと語ってた。粉に香りがあるとかなんとか」

 上の空でいたら、母親の質問にうっかり“小島さん”と答えそうになった。

「でも、どうせ電話するんなら、その時聞けば?」
「ダメダメ。そういうのは本人に聞いちゃ失礼なのよ。裕も社会人になったらそういうこともあるから、覚えておいてよね。裕はそういうの苦手なんだから」

 それはかなり当たってる。苦手なんじゃなくて、興味がないのだが。

「お蕎麦かぁ…でも寺岡先生は自炊なさるかしら?」
「…さあ。聞いてみれば?」
「…だから、もう! …わかった。裕、さり気なくお聞きしてくれるかしら?」
「いいけど」
「結婚されてるの?」
「ううん。独身だよ」

 そんな有り得ないことを訊かれて、あの二人の独身の人たちはどうなってるんだろうと、そんなことを思っていた。今夜僕は隆に、母親は寺岡さんに電話をする。変な感じだ。

「あぁ、コーヒーが好きだった気がする。僕に淹れてくれた。フレンチ? とかだったかな。苦…かった気がする」

 不意に隆が“お前んとこのコーヒーは苦い”と言ってたのを思い出して、僕はそう答えた。フレンチって苦いんだよね? 隆が苦いって言ってたからそうなんだろう。

「ああ、それそれ、そういうのが無難でいいわ。コーヒーでフレンチのブレンドね。わかったわ、それにしましょ。美味しい焙煎の使ってるんでしょうけどねぇ…凝りそうじゃない? だって大学教授だし。豆とレギュラー…どっちがいいのかしら?」

 さすがにそれはよくわからなかった。