「今じゃなきゃダメなの。留美子……お兄ちゃんを悪く思わないで。きっと、私に生きていてほしかっただけなの」
……?
あゆみが何を言っているのか、さっぱり分からないけど、悪く思わないでというのはね。
「分かった。悪く思わないよ」
意味不明だけど、あゆみの頼みならとりあえずこう言っておこう。
「……よし、いよいよ最後の仕上げだ。中に入るぞ」
私の手を取り、家に向かって歩き出した龍平。
その時。
「キャハハハハハハッ!!」
背後ではなく、頭上からその声は聞こえた。
「向かいの家の屋根にいる! 上から来たんだよ!!」
私達の正面で、それを指差したあゆみ。
どおりで、背後から追いかけて来ていないわけだ。
背後どころか、私達のはるか上を移動していたのだから。
「くそっ!! 中に逃げるぞ! あゆみっ!」
龍平がそう言っても、あゆみはその場から動かなかった。
いや、動けなかったと言った方が正しいのか。
踏みしめられた草の上で、赤い人と向き合っているあゆみが、家の中に入るには振り返らなければならないのだから。
「ふたりで行って! 今度は……私が助けるから」
あゆみとすれ違う瞬間、美雪と同じく見せた優しい笑顔。
私達があの場所にたどり着くために、自らを犠牲にした健司と美雪。
ふたりに続いてあゆみまでが、赤い人の足止めをしようとしている。
「キャハハハハハハッ!!」
屋根から飛び降りたのだろう。
上からの笑い声が移動しているのが分かる。
そして、庭を走っている時に、その声は聞こえた。
「留美子! 私達、いつまでも友達だよね!」
その言葉に、私はうなずく事しかできなかった。
家の中に駆け込んで、あの暗い通路を抜けて。
階段を下りた先にある地下室に入り、私達は壷の前に立っていた。
皆が赤い人を止めてくれたから、ここまでたどり着く事ができたんだ。
私ひとりじゃ、学校から出る前に殺されていたに違いない。
「後は……この中に入れるだけだな」
それが美紗の望みで、そのために私達は頑張って来た。
だけど、それをしてしまうと、手をつないでくれている龍平とも、二度と会えなくなってしまうんだ。
暗くて良かった……もしもこの部屋が明るかったら、泣いてぐしゃぐしゃになってる顔を見られてしまうから。
「留美子、どうした? 入れないのか?」
龍平に促されて、ポケットから心臓を取り出すけど……そこから手が動かない。
バカで変態で女好きな龍平。
だけど、私はどうしようもないくらいに好きになっていて。
絶対に違うと気付かないふりをしていたのに。
最後の最後で、その気持ちが溢れ出したよ。
ギュッと握りしめた手に、何かを感じ取ったのか、龍平も私の手を握り返してくれた。
そして……つないだ手を放すと、私の身体を引き寄せるように抱きしめたのだ。
こんな時に何をしてるの?
なんてまったく考えずに、私も龍平を求めるように背中に腕を回した。
意地を張って、いなくなるんだから絶対に好きにならないとか考えて、私はバカだった。
こんなに好きなのに……。
こんなに安心できるのに、私は龍平を拒んで。
自分が悲しみたくないから、龍平を傷付けて。
でも、龍平はすぐにいつも通りに戻ってくれた。
もっと早くにあゆみや美紗じゃなくて、私を好きだって言ってくれたら……少しはこの関係も違っていたのかな。
龍平に抱きしめられて……涙が止まらない。
ヒックヒックとしゃくり上げて、胸に顔を寄せたまま涙を流し続けた。
「泣くなよ。留美子はどんな時でも明るくて、可愛いんだからよ」
「う、うるさい! 何であんたは……誰にでもそんな事言うのよ! 何で最後なのに……そんな事……」
もっと早くにそう言って、抱きしめてくれたらと、何度も心の中で叫んで。
「……最後じゃねぇよ。武司さんとも約束したし、留美子との約束もあるから。何が何でも留美子に会うから」
私の身体を離して、そう言った龍平の顔は暗くて分からない。
だけど……近付いて来たと分かる、その顔。
震えた手で肩をつかむ龍平と……私は、唇を重ねた。
どれくらいの時間、こうしていたのかは分からない。
脳ミソが溶けてしまいそうになるような快感と、胸を締め付けられるような息苦しさに襲われて、この時が永遠であるかのような錯覚に陥っていた。
私のファーストキス。
それは涙の味がして、すべてが終わる直前に起こった悲しいキスだった。
「キャハハハハハハッ!!」
そんな私達の邪魔をしたのは、あの笑い声。
そこでようやく我に返り、慌てて龍平から離れる。
「龍平……」
「……ここまでだな。留美子、絶対に約束は守れよな」
そう言って、心臓を持つ私の右手に手を添える。
「約束って……何かした?」
いつ、どんな約束を龍平としたのか思い出せないのに、手は壷の上に移動する。
「覚えてないのかよ……言っただろ? カラダ探しが終わったら、ヤらせてくれるってよ」
龍平はそう言って、私の手から心臓を払い落とした。
「キャハハハハハハッ!!」
赤い人が地下室に入って来たのか、笑い声が部屋中に響き渡る。
でも、心臓が壷に吸い込まれて。
そこから光が溢れて、私が最後に見たものは……。
優しく私に微笑みかける、龍平の笑顔だった。
「……と、……たの!?」
誰かの声が聞こえる。
遠くから、私の身体を揺すりながら。
もう朝? ママが私を起こすなんて珍しい。
「留美子!! 起きてよ!」
耳が引っ張られるような感覚の後、鼓膜が破れそうなほどの大音量に、私は思わず飛び起きた。
「な、何よいったい!? うるさいっての!」
辺りを見回してみると……そこは学校の大職員室前で、世界がヒビ割れた、あの記憶の断片と同じ場所。
「何じゃないよ! 武司も留美子も急に倒れてさ! 全然起きないんだから!」
そう言って私を心配そうにのぞき込んでいるのは……明日香さん。
「何で明日香さんがここに……そうだ! 龍平は!? 『呪い』は……」
どうも記憶がはっきりしない。
私は美紗の家の地下室で、壷の中に心臓を入れて……もしかして、元の世界に戻ったわけ?
「な、何で“さん”付けなの? 倒れた時に頭でも打った?」
「そうだぜ留美子。お前、何言ってるんだ? 龍平って誰だよ」
明日香さんだけじゃなく、高広さんまで。
あんなに仲が良かった龍平を覚えていないなんて。
いや……そうじゃない。
龍平の事を忘れたんじゃなくて、知らないんだ。
あの世界は武司さんの意識の中で、武司さんが産み出したもの。
翔太さんも、結子さんもいる。
「大丈夫かい? 柊さん」
ヌッと、私の視界に入って来た不気味な顔。
うわっ!と、心の中で悲鳴を上げたけど……これは八代先生だ。
……あっちの世界の方が良かったなあ。
なんて考えている場合じゃない!
「『赤い人』の……『呪い』を解かなきゃ」
そう呟いて立ち上がった私を、不思議そうな表情で首を傾げた翔太さん。
「留美子、お前何を言ってるんだ? 美雪が今、美子に教えてもらって、美紀の『呪い』を解こうと……」
「違う! 美紀じゃない! 本当に解かなきゃならないのは、美子の『呪い』なの!!」
話しているうちに、この世界での記憶が甦ってくる。
それと同時に、夢でも見ていたかのように、薄れていく今までの記憶。
だけど、忘れてはならない記憶だけははっきりしていて、私がやらなければならない事は覚えている。
美子の心臓を……美子に返す。
美紗の願いを叶えられるのは、私だけなのだと分かったから。
「うぅ……何なんだチクショウ。急にめまいが……」
結子さん……いや、結子に起こされて、武司がゆっくりと身体を起こした。
「キミも大丈夫かい? 柊さんといい、キミといい、いったい何が起こってるんだろうね」
「うおっ! 気持ちわりぃ顔を近付けんじゃねぇよ!!」
八代先生に、目覚めの一言。
「し、失礼だなキミは! 仮にも僕は教師で……」
「そんな事より、美子の『呪い』を解くってどういう事?夢でも見たんじゃないの?」
八代先生の話をさえぎるように、明日香が私を見つめる。
夢だったらどんなに良いか。
美子も美紀も、「呪い」もない夢ならずっと見続けていたいけど、これは夢じゃないから。
「良い!? 私達にはまだやる事があるの!! 美子の心臓を探して、美子に返すの! 美紗が……そう言ってたの!」
私の言葉に、皆あ然としたような表情を浮かべる。
無理もないよね。
突然倒れて、目を覚ましたかと思ったら変な事を口走っているんだから。
でも……。
「それはどこにある? 俺も一緒に行ってやるぜ」
その中でただひとり、声を上げたのは……武司だった。
いつも私達に反発していた武司が……何も聞かずに私に賛成してくれている。
「おいおい、お前も頭を打ったのか? いきなり何だよ、美子の心臓って」
呆れたように高広が言うけれど、武司は意見を曲げない。
「高広ぉ、テメェに何が分かるんだ!? あゆみが言ったんだよ、私達を信じてくれってな!! だから俺は、留美子を信じてやるぜ!」
覚えている。
私だけなら、本当に夢かと思うほど薄れている記憶を、武司も覚えているんだ。
そう思うと、私も勇気が湧いてきた。
「私は武司と生産棟の中庭に行く。信じられないなら、屋上に行ってみなよ。美雪が……死んでるから」
言いたくなかった言葉。
美雪はこうなる事が分かっていて、私にすべてを託したんだ。
「おいおい……知りもしないのにめったな事は言うなよ……美雪が死ぬはず……」