「冗談じゃないぞ! 逃げるったって、どこに行けば良いんだよ!」
 ゆっくりとあの場所から離れながら、俺は文句を垂れていた。
 赤髪の少女の言に従い、俺達はありがたくあの場を後にさせて貰ったという訳だ。
 遙か後方で雷が落ちたような轟音が響く。
 発光は感じなかったので、再びあの羽矢が地面を穿った音と考えるべきだろうか。
 それともあの子が何か大暴れして、それによって発生した音だったのだろうか。
「なーんてね。今日の夢は、いつもより少しだけ過激だってだけの話さ。目が覚めたら、きっと退屈な朝が待ってる」
 強がってはみるものの、由加とぶつかった時にくじいた足の痛みは、これが夢ではないと休み無く語りかけてくる。
 軽口なんて、現実逃避にすらならなかった。
「大樹、足は大丈夫?」
「由加に肩を借りなきゃ歩く事もままならない自分が、マジで情けないよ……」
 こっちはただの人間なんだ、もう少し加減して貰いたかった。
 欲を言えば、俺達に関わらないで欲しかった。
 何も無い日常が、今は恋しくて仕方が無い。
「何が、悪かったんだろうな」
「…………」
 独りごちてみるが、答えは返ってこない。
 代わりに俺の足を気遣ってか、由加が歩みを止めた。
 絶対とは言えないけれど、赤髪が見えないくらいには離れた位置。
 多分、比較的安全な場所。
「別にさ、スリリングな毎日が欲しかった訳じゃないんだ。由加が居て、友達が居て、家族が居て、学校行ったり、遊びに行ったり、悪ふざけしたり、勉強したり──不満なんてあんまり無かったんだ」
 幸せだったんだ。
 きっと、文句を言いながらも楽しい毎日を送っていたんだ。
 確かに辛い事も沢山あったけれど、それに負けないくらい楽しい事や嬉しい事もあったんだ。
「何でこんな事になっちゃったんだろうな……」
 ふと周りを見れば、壁にも地面にもあの気味の悪い灰色の穴が開き始めている。
 それは虫に食われるようにして、じわじわと広がってきているのだ。
 このままだと、俺達も巻き込まれかねない。
 巻き込まれたら、どうなるのだろうか。
 ……この穴は駄目だ。
 命の臭いがしない。
 死の臭いすらしない。
 それは言いようのない恐怖だった。