安岡の殴る動きが止まり、ふーふーという荒い呼吸を刻み、肩が何度も上下に膨らんでは萎んだ。里子は安岡の後ろ姿に、熊を連想させた。

中尾はぴくりとも動かなかった。顔面は赤く濁っている。

安岡はしばらく中尾を見下ろした。彼は何も言わず、中尾に背を向け歩き始めた───途端、いままで電池が切れた人形のように動かなかった中尾が安岡に飛び掛かった。

安岡は勢いよく倒れ、中尾が馬乗りになる状態となった。彼は安岡の襟首を掴むと、口に溜まった血を安岡の顔に吹きつけた。

安岡の顔が真っ赤に染まった。そして中尾は叫んだ。

「俺はエイズだ。安岡、お前の身体のどこかに傷があれば、ウィルスが侵蝕するぜ。あんっ。俺と同じくHIVウィルスに蝕まれながら生きるか。なぁ、おいっ。」

あはははは、彼は狂ったように笑い声を上げた。

さらに彼は自身の血のついた顔を、奇声を発しながら安岡の顔に擦り付けた。

「やすおかぁ。俺と一緒に死のうぜぇ。苦しみながらよぉ。」

安岡は顔中、彼の血や涎、涙でべとべとに汚れた。

中尾の衝撃のカミングアウトとも云える言葉を聞いた安岡は、恐怖で顔を引きつらせた。自分はとんでもない相手に喧嘩を売ってしまったと後悔した。

声を荒げながら彼を突き飛ばした。ひー、悲鳴を上げ、教室を飛び出した。安岡の取り巻きの姿は、彼と同時に消えた。

中尾は天井に向かって声高に笑っていた。すると急に笑い声が止んだ。彼はゆっくり身体を起こす。生徒全員が中尾に注目していた。

すると彼は、口の中がずたずただっちゅうのと言いながら、血に染まった舌を出した。続けざまに陽気な言葉を残し、ふらつきながら教室を後にした

彼が去った室内は水を打ったようにシン…としていた

次の日には、顔中絆創膏を貼った中尾が、何食わぬ顔で現われていた

それから中尾を取り巻く環境が一辺した

誰も中尾に近寄らなくなったのだ。あいつはイカれてる。エイズだ。ホモだ。整形だ。更に噂がうわさを呼び、親は覚せい剤を密輸しているだの、自家製爆弾を密かに作っているとか、好き放題いわれていた

だが彼がそれを気にする様子を、里子は一度も見たことはない。そんな彼を見て里子は思った。なんて強い人なんだろう──と

中尾が本当にエイズか否か、真実を知る者はいない