ホワイトボードを叩く音がした。礼二はいつの間にか閉じていた瞼を開けた。ドン小谷が声高に何かを云っている

「受験戦争に浸かったお前らに夏休みは存在しねー」

お馴染みの台詞だ。ドン小谷の講義は、いつもこの言葉から始まる。ドンというのは首領の意味で、いつも偉そうにしている小谷講師を、誰かが皮肉ってつけたあだ名が、今では塾内で浸透している

礼二は高校二年だが、レベルの高い大学に進学するには、今から受験勉強してでも遅いくらいだ。礼二はもちろん日本一の大学の医学部を受験するつもりである

三時五十分に塾が終わる。礼二が窓を見ると、天が唸っていた。空模様が墨を溶け込んだ色に変化している。朝の天候が嘘のような風景だった

夕立の前に帰らなきゃ、礼二は友人達に別れの挨拶もそこそこに、駐輪場に向かった。彼はジーンズのポケットに手を入れた。あれ、自転車の鍵が無い

礼二は両方のポケットをまさぐった。ない。次に参考書の入ったリュックの中を見た。やっぱりない

どうやら自転車の鍵を無くしてしまったらしい。彼は舌打ちした。自宅にスペアキーはあるが、家路には徒歩しかない

塾から自宅までは4キロほどだ。仕方がない。礼二は気持ちを切り替え、歩いて帰宅することにした

空が地響きのような音を鳴らす。いつ雨が降ってもおかしくないほど、風景全体が黒い雲で覆われていた

礼二が交差点に出た。彼の頭上からポツポツと粒の大きい水滴が落ちた。「やべっ」彼が口にした途端、雨粒の量が増した。アスファルトに黒い水滴が次々と広がる。南に二十メートルほど下ると中央図書館がある

礼二は勢いよく走り出した。中央図書館に着いたと同時に大雨になった。この世を水没させてしまうのではないかというほど、激しく降っている

ギリギリセーフ。礼二はリュックからハンカチを取り出し、少し濡れた額を拭った。しばらく止みそうにないだろな、そう思いながら彼は降り続く雨をぼんやり眺めた

礼二は中央図書館に来て無意識に連想している。あの美少女のことだ。今度は意識的に彼女を想った。館内にいるだろうか、彼は期待せずにいられなかった

中央図書館には何度か足を運んだことはあるけど、こんなに緊張して館内に入るなんて想像すらしてなかったな──そう思いながら礼二は、高鳴る鼓動を押さえるのに必死だった