そしてアルバムを見ると、粗方誰かもちゃんと分かり、その知識は豊富だった。
そして私は一枚の写真に目を向けた。
これが私でこれがお姉ちゃんでこれが京華。
三人で写る小学5年の頃の運動会の写真だった。
なんか私だけ元気がないように見える。
多分それは個人競技に於て全てビリ、団体競技に於ても私の所為で、全てビリ。
それで周りに迷惑ばかり掛けて色々と周りから言われていたからだろう。
私は運動会が大嫌い。
このように写真一枚でもその時その時の事が色々とわかってくる。
しかしわかると言っても、それは映像として自然に頭に浮かんでくるものではなかった。
浮かぶとしたらそれは何だろうか?
一番近いものに例えるなら言葉だろうか。
まるでこの時の私からその時の事を全て教えてもらっているような感じだった。
そしてその言葉を頼りに想像して映像とする。
思い出した記憶の映像ではなく想像した映像だから実際とは全然異なるものだろう。
そして映像にできないものに於ては、この私には想像出来ないものがあまりに多く、想像出来てもそれは非常に疑わしく感じてしまう。
だから私は運動会で自分が嫌な想いをした事はわかっても、それはまるで私が他人の気持ちを理解してやるようなものだった。
私は気付き始めた。