『佐伯さんはさ、名前で呼ばれたい?』

隣を歩く先輩が

私の顔を覗き込むように突然言った。


『名前、ですか?』

『うん、名前。

名前で呼び合う方が

恋人っぽいんでしょう?』

『誰かにそう言われたんですか?』

『ん~まぁ、いつまで名字?ってさ、

佐伯さんのお友達の芽依ちゃんが

言うんだよ』

あぁ、うん、
私も言われてる。

でも、それは・・・

『私はこのままでいいですよ?』

不満なんてないし、

呼ぶか呼ばないかは先輩の自由だし、

それに・・・

『総司って呼ぶ?』

ムリムリムリムリムリ。

絶対に無理。

『佐伯さん、顔が真っ赤だよ』

ほら、想像するだけで

これだもん。

言えるわけがない。


『俺は名前でもいいんだけどさ。

いや、むしろ名前で呼ばれた方が

俺は佐伯さんのものって感じで

嬉しいんだけどさ』


ムリムリムリムリムリ。


『震えすぎ。そんなにヤダ?』

『と、とんでもない!

嫌なわけじゃ・・・』

『恥ずかしい?』

もう!見透かしてるくせに、

わざと遠回りして意地悪するんだから。


ムッとしながら

素直に『はい』って答えると

先輩は何時ものように目を細める。


嬉しそうに微笑む先輩が

どうしようもなく好きで、

意地悪されても、

恥ずかしくても、

最後は素直になって、

先輩が欲しがる言葉を言ってしまう。


『恥ずかしいんだ?

ふ~ん。

ま、俺も、なんだけどね』


え?

え?

え?

先輩が、恥ずかしい?


照れ臭そうに笑う先輩は

『あんまり見ないで』なんて言って

顔を反らした。


いや、いや、いや、

駄目ですよ。


これ、とっても貴重!!


見逃すわけにはいきません!


今度は私が先輩の顔を覗き込むように

先輩へと近付く。

上手にかわす先輩の顔が良く見れなくて、

『ずるいです。

いっつも私ばっかり』


拗ねてみせると先輩は

『ははっ』と笑い、

繋いだ手に力をこめた。


『佐伯さん、』

『俺ね』

『結構、一杯、一杯なんだよ』


ぎゅっと握り締められた手が、

ぎゅっと締め付けられる胸が、

すごく痛い。

眉を眉間に寄せて

私を見下ろす先輩の気持ちが

その瞳から伝わってくる。



はい、私も、



『私も、一杯、一杯です』



こうやって隣を歩くこと。

こうやって手を繋ぐこと。

こうやって気持ちを伝え合うこと。


自分がどれだけ貴方を好きか、

どれだけ貴方を想っているか、

それを伝えるだけで、

今は一杯一杯なの。


呼ばれる名前が名字でも、

それだって私だし。


先輩の茶色い瞳に映るのが

私ならば、

なんて呼ばれようが関係ない。



『少しずつ、

少しずつ

前へ行ければいいですよね?』


私達の時間はまだ始まったばかり。

ゆっくり、

幸せを噛み締めながら、

想いを交わし合いながら、

そうやって時を重ねていこう。



『佐伯さん、

それはちょっとムリかな』


『・・・はい?』


『俺、今だって佐伯さんのこと

抱き締めたくて仕方がないんだよ』


『なっナニヲ急に!』


『俺、男の子だし、ね?』


ね?って・・・


そんな可愛らしく

ね?なんて言われても・・・


な、何も答えられることなんてないよ!


先輩はニヤニヤニヤニヤ笑ってる。


また私に意地悪してるんだ。


こんな時は私が何かしら返事をしないと

ずっとこのまま見詰めるんだ。


『先輩の意地悪っ』


プイッとそっぽを向くと

先輩が声をあげて笑う。


『本当、佐伯さんは可愛いな』


先輩、


『本当に一杯、一杯なんですか?』


『見えない?』


『見えません。

余裕に見えます』


『あぁ、バレたか』


なっ!!嘘なの?

あの瞳も嘘なの!!?


『ひっどい。

騙したんですか?』


『騙してないよ』


ケロッと言い放つ先輩。


『もう、どっちなんですか?!』


『知りたい?俺の本音。

佐伯さん、知りたい?俺の気持ち』


また、そうやって。

悪戯っ子の表情を作る先輩に

警戒しながらも、

やっぱり先輩には敵わなくて、


『知りたいです』


先輩の瞳から目をそらして

俯きながら悔しさを押し殺して

答えてあげた。



『ふっ』とまた1つ吹き出したあと、

先輩は落ち着いた声で話を始めた。


『一杯一杯なのは、

我慢なんだよ』


我慢?

顔を上げて隣を見上げる。

珍しく先輩の瞳は進行方向を向いていて、

私の瞳には先輩の横顔が映った。


私を見ないその瞳は

真っ直ぐ前しか見てなくて、

これこそ真面目に聞かなきゃならないんだと、

私も同じ方向を向く。

『触れたいよ、佐伯さんに

俺、我慢してて、一杯一杯なんだよ』


先輩の言葉に驚いて、

先輩を見上げるけど、

先輩は変わらず前だけを見ていて、


『佐伯さんに名前なんて呼ばれたら、

俺、佐伯さんを拐って閉じ込めておきたくなるよ』

私の方へ顔を向けながら言う。

合わさった瞳から伝わるのは、

先輩の真剣さ。


言葉なんて出てこなくて、

先輩の瞳から目を反らせなくて、

ただ見詰める。


『ほら、そうやって無防備に見詰める。

キスするぞ』


『ん、なっ!!』


『ははは、また真っ赤だ』


『もぉ』

もしかしたらこれも

先輩の意地悪なのかもしれない。

そんな疑いが

無かったわけじゃないけれど、

先輩があまりにも楽しそうに笑うから

もうそういう理由でいいや、って

当分このままの呼び方でいこう、って


二人で決めた。






先輩との三度目の帰り道。






『芽依ちゃん、

先輩に名前で呼ばないの?とか

聞いたでしょ?』

『あ、言ってた?』

『言ってた』

『じゃ、聞いたんだ?

プロポーズ』

『ぷ、プロポーズ?』

『何、とぼけてんの!?

言われたんでしょ?』

『何を?』



ーーー《佐伯》の名字を名乗るのは

あと数年間。

俺のことも名字で呼ぶのだって

残りは同じ年数なんだよ?

俺の名字を名乗るようになったら

それから一生名前で呼び合うんだから、

今は《佐伯さん》を堪能するよ。

《高野先輩》って呼ぶ佐伯さんを

胸に焼き付けてね。





どれが、

真意なのか、

私にはわからない。




さっき別れたばかりの

先輩に

逢いたくて仕方がなくなった


朝の教室。











end