━━…どうか、わたしを、××してください。

 また、あの声がする。
 消え入りそうな…今にも息耐えてしまいそうな…儚い女の人の声だ。
 何かを懇願するその声は、いつも肝心なところが聞こえない。

 …どうか、わたしを……?
 「…あい、して…くだ…さい……?」
 ゆっくり息を吐く様に告げると同時に、視界も開けてゆく。
 見慣れた天井に向かって、縋る様に無意識に伸ばされた手。
 
 ……あ、しまった。
 また寝ぼけてよくわからない行動を…。
 
 行き場ない手を布団に戻そうとしたが、ふいに横から伸びた手に包まれてしまう。
 大きくて、骨ばっている、でもとっても温かい…大人の男の手。
 細くて、長い、無骨な指が意味深に絡められた。

 「…おはよう、絵真(えま)。といっても、もう昼だけど」
 そう言って手の主である━━…奏(そう)が微笑んだ。
 切れ長の目、長い鼻筋、色素の薄い栗色の髪…。
 
 「おはよう…奏」
 「今日の調子は?…顔色はいいみたいだけど」
 未だ手を繋いだまま、奏は身体を倒して布団に横たわる私と額を合わせた。
 一切の躊躇もなくだ…。

 「熱もなさそう」
 「……いつまでも子供扱い」
 「そう?」
 吐息がかかる程の至近距離の奏の笑顔は、何やら意味深だ。

 小さい頃は女の子みたいで可愛かったのに…。
 中性的な面持ちは確かに昔の名残はあるのだが、大きくなった今ではどこか毒を纏う綺麗な花の様で……正直、困る時がある。

 「絵真…【椿の姫】が正式に決まったらしい」
 すぐ傍にある、淡い栗色の瞳の奥で何かが宿る。
 それは何故だか、ゆらりと揺れる黒い炎を彷彿とさせた。
 
 「…やっぱり【霜月】の家みたい」
 「…歌世(かよ)ちゃんが?」
 小学校の時、同じクラスになった事がある。
 雪の様に白い肌、綺麗な黒髪が印象的で━━…体調が優れている日に登校した時には必ず「時近さん、おはよう。今日は元気でよかったね」と優しく声をかけてくれた子だ。

 「そっか。霜月さんならば、良い姫になるね…」
 「俺は単純に【椿の姫】なんていらないよ。これ以上、絵真が苦しむのは嫌だ」
 解けてゆく指の感触で、手を繋いでいた事を思い出した。
 その手はそのまま私の右頬に添えられて、愛しげに一度だけ撫でた。

 「俺が絵真を守るから」
 「……奏?」
 …人生の大半をひきこもり、世間知らずを形にした様な私にもわかる。
 8畳の質素な和室が、いつの間に何やら甘い空気に包まれている事を…。

 「絵真の傍にずっとい━━…」
 「遅い!!!!!!」

 奏の言葉が最後まで紡がれる事はなく、威勢のよい声と共にピシャーーンと派手に襖が開けられた。
 その一瞬で、甘い空気は見事に霧散した。

 「有馬!おまえ!籠女様を起こしにいくのに何分かけているんですか!顔合わせる度にいちいちいちいちいちいち!発情してるんじゃありません!」
 
 襖の向こうの廊下に現れたのは、如月琴音(きさらぎ ことね)だ。
 私より3個年上の20歳になるはずだが、今日もきっちり着付けられた着物と、凛とした顔立ちの美しさと、大人びた佇まいが、彼女を実年齢より大人っぽく見せる。