2891分。2日と、11分。



シキの言っていることが、理解できなかった。

なんだよ、それ。なんなんだよそれ……!!


シキは、人間で。

ちゃんと〝ここ〟にいて!


楽しければ笑うし、悲しければ泣くし、恥ずかしかったら赤くなって、傷つけば呻く、人間なのに。




シキは、足音もなく、そっと俺の前までやってくる。

右腕が上がって、俺の頬に触れた。それは、あまりに冷たくて氷のように、冷たくて。

俺の、溢れてくる涙だけが、熱を持っていた。


そして、言った。











「───わたしは、9年前に、死んだ。



 この学校の屋上へ続く階段で、



 転落して、死んだの」









彼女と、俺の出会いの代償は、傷だった。

時間というリミットを抱えて、心をずたずたに引き裂くほどの。








***


にわかには、信じがたいことだった。

この世界に、彼女がいないことが。


……いや、本当は薄々気が付いていたのかもしれない。

〝彼女の記憶だけ〟が抜け落ちている。病気かもしれない。俺が何かの病気にかかっていて、もしくは何か事故があって記憶を、無くしてしまった。

そんな、都合のいいことだって考えた。


でも、それはおかしい。

だって俺の周りで、そんなことを言うやつは一人だっていないから。


もし俺が大きな事故に遭ったとして、それをほかの奴らが知らないのは、おかしい。

いつものように朝起きて、ご飯を食べて、歯を磨いて、隣の家の幼馴染から嫌味を言われながら登校して。


そんな変わりない日常が送れるなんて、おかしい。



───なら。


なら、消去法で残るのは、一つだけだった。







「ひとつずつ、説明していこうと思う」


シキは、そう言いながら長らく使われていない机をすうっとなぞる。


あの時の、空き教室。

俺はシキに移動しようといわれて、言われるがまま、何も考えることすらできないで、彼女の後ろを付いていった。


こひゅっと乾いた喉が、音を鳴らす。

足がうまく動かなくて、俺はドアの一歩前に踏み出すことは、出来なかった。


「……わたしが、死んだこと」


シキが、死んだこと。

ここに、いない、こと。


「わたしは、9年前に、死んだ───でも、」


シキが、悲しそうにくすりと笑った。

その笑みを見るたびに、俺の胸はナイフに切り裂かれでもしたように鋭い痛みが襲って、張り裂けそうになる。







「でも、わたしの生きていた時のことを、わたしは……覚えていない、の」


「……おぼ、えて」


「……わたしが、〝死んでしまった〟わたしが瞼を開けたとき、そこは、屋上へ続く階段だった。ひとりで、そこにぽつって、立ってたんだ。

  
 どうして、ここにいるのか、思い出せなかった。
 
 自分が、何歳なのか、どこの家で、家族は誰で、友人が誰で、電話番号も、何も、思い出せなかった。

心が空っぽになったみたいに、空洞になったみたいに、全部、忘れてしまった。


 覚えていたのは、───シキという名前だけ」


一人で、たった一人で。

瞼を開けたとき、そこは知らないどこかの学校の屋上。

きっと、シキは必死に自分が誰なのか、家族は、家は、友達は、帰り道は、思い出そうとして───何もないことに、気づいてしまった。




「自分が、死んでしまったって気づいたのには、そう……時間はかからなかった。

 階段を下りて、それからたくさんの生徒が廊下を歩いてて、話していて、楽しそうで。

 一人に、ね。……話しかけたの。すいません、いいですかって。


 
 ……その人は、まるでわたしが〝いない〟みたいに、通り過ぎて行った。



 何かの、冗談なんだって。これは、きっと誰かに仕組まれて、誰かに、何かされて、きっとみんながおかしいんだって、そう思いたくて。

 通り過ぎる人、みんなに話しかけたの。引き留めて、……引き留めようとして、その手はすってすり抜けて……触ることも、できなくて。

 


 わたしは、ここにいるって。


 ……でも、……でもね、誰も気づいては、くれなかった。


 
 ───だって、わたしはここに、〝いない〟んだから……」






ここにいる。

わたしには、ここにいる。

誰か、誰か、誰でもいいから、気づいて。


9年前、シキがたった一人世界に取り残されて、泣いている姿が目に浮かんだ。

9年、俺に出会うまでの9年間、彼女はどう過ごしたのだろう。


9年なんて長い間、途方もなく長い間、彼女はたった一人で。何も知らない自分を空っぽの自分を抱えたまま。




「……そんなの、理不尽すぎるだろ、なんだよ、それ」

シキは、その言葉にスイは優しいねと言う。優しくなんてなかった。俺だって、彼女に、彼女との記憶をなくしてしまったことに、気づかずにいたんだから。




「最初はね、気づいてもらいたくて、話しかけていたんだ。


 ……でも、もう、駄目だった。


 駄目だったよ」




話しかける。

そのまま通り過ぎていく。

話しかける。

すり抜けていく。


そんなことを、何度も繰り返して、何度も何度も繰り返した。

それで、平気でいられる?……いられるわけ、ない。


9年なんて、短いかもしれない。

でもシキにとっては、永遠よりも長い苦痛でしか、なかった。



頼れる人も、信じる人も、慰めてくれる人も、誰もいない。誰も、気づいてくれない。

そんな残酷な、痛みしかない世界。



それが、彼女の世界だった。







「そして、現れたのが───スイ、あなただった」


シキの口調が、柔らかくなる。

情けない顔をしていただろう。

シキはそんな俺を安心させるかのように優しく優しく笑いかけた。




そんな彼女の優しさが、強さが、今になって分かるなんて。




どうして今まで自分が気づかなかったのか、気づいてあげられなかったのか、やるせない気持ちでいっぱいだった。

それでも、聞かなければならない。

逃げてしまうのは、彼女を傷つけることだから。



「……いつ、逢ったんだ」



シキが、苦しそうに顔を歪める。